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初級アメリカクエスト2005 -アメリカ西海岸縦断編-

PDFも埋め込めるようになったので、10年ちょっと前くらいに書いたこのアメリカ旅行記も記事にしておきます。

おまけとして…

以下の記事は当時書いたもので、今は亡き新風舎という出版賞のコンクールに応募して入賞一歩手前の「最終審査候補作品」に選出されたことなど書いてあります。

初級アメリカクエスト2005 -アメリカ西海岸縦断編-

 

初級アメクエ2005が表紙や挿絵付きでリニューアル!!!

10年前にしたアメリカ一人旅の紀行文です。

実は、当時、この紀行文を今はなき新風舎という出版社のコンクールに応募したところ、最終選考まで残り、「新たな感動を与える作品」として認定され、表彰されました。

当時は字だけだったんですが、今回、もうすぐ10周年ということで、表紙や挿絵を導入し、10年後の後書きも入れて体裁を整えて自主プロモーションをしようと思い立ちました。これだけの話を自分の胸だけに押し留めておくのはもったいないと感じてます。

使用されている挿絵は、当時の写真をiPhoneのWaterlogueというアプリで水彩画風に画像編集されたものです。実際の写真を載せるより、きっと情景をイメージしやすいと思います。

とうことで、リニューアルされた「初級アメリカクエスト2005」をぜひ読んでみてください。B5版で印刷するとちょうど良いサイズになります。

以下の画像のリンクからPDFファイルが開きます。
Preset Style = 旅行記 Format = 6" (Medium) Format Margin = 小 Format Border = 角の丸み小 Drawing = FOO Drawing Weight = ヘビー Drawing Detail = 中 Paint = ニュートラル Paint Lightness = 普通 Paint Intensity = FOO Water = FOO Water Edges = 中 Water Bleed = 平均 Brush = FOO Brush Focus = FOO Brush Spacing = 中 Paper = FOO Paper Texture = 中 Paper Shading = 中 Options Faces = Enhance Faces

第65話 出会いの持つ意味をかみ締めて僕はまた旅に出る

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池袋駅ビルのレストラン街を出てJR池袋駅のホームに入ると、いよいよお別れの時が訪れた。

やがてニックスが乗る成田エクスプレスがホームに到着し、ニックスはその電車に乗り込んだ。

僕は、やはり最後の言葉がうまく出てこなかった。

そんな僕に、ニックスはとびっきりの笑顔を返してくれた。

「笑顔」-それは、その人の人格やこれまで生きてきた背景が忠実に表現されてしまうものだと思う。

自分らしく生きている人は自然に笑顔が出てくるし、逆に捻くれていたり、皮肉ばかりで自分に嘘をつきながら生きている人はどこかぎこちない笑い方をすると思う。

気持ちの良い笑顔の裏には深い悲しみを乗り越えた経験が潜んでおり、穏やかな笑顔の裏には激しい感情の中で苦難の壁を破って生きてきた答えが隠されているのだと僕は思う。

「人は悲しみが多いほど、人にはやさしく出来るのだから。」

これは、海援隊の僕の大好きな「贈る言葉」の歌の中の一節で、この一節が歌のメロディーと合わさった時に、僕は揺ぎ無い説得力を感じる。

人間のすべての感情は表裏一体で、どちらかを知らなければもう片方を知る事もない。

だから、真の「悲しみ」を知らない人間に、本当の「やさしさ」を知る術はないのだ。

その時のニックスの笑顔は、やさしさに満ち溢れていた。

それは演技では決してなく、「君と出会えて本当に良かった」というメッセージを送ってくれているように感じた。

僕は今まで、人に頼らず自分一人で何でもこなして行くのが、自分にとって最善の道だとどこかで考えていた。

ある意味ではそれで良かった部分もある。

例えば、ろくに本も読まずにとりあえず自分の思った事や感じた事を書いてみるようになった事は、他人の意見に左右されない自分独自の表現方法を僕の中に創造したし、海外旅行初心者の僕が勇気を振り絞って無謀なアメリカ旅行を断行した事は、誰にも出来ないような数々の体験を僕に齎した。

こうやって、僕は他人と一線を画す事で、僕の人生設計を独自のビジョンで描き始める事が出来た。

だが、現時点で僕に出来ることなど、過去の偉人と比べると鼻糞のようなもので、間違っている事もあるだろうし未熟な考え方をしてしまっている部分も多々あり、このまま孤独な戦いを続けている限り、「知らないまま」一生このまま一人で突っ走ってしまうだろう。

 そう、一人の限界はここにあるのだ。

そこでやはり大事になってくるのは、間違いを指摘してくれて正しい方向に導いてくれる友だ。

所詮、一人だけでは一人分の事しか成しえない。

だが、それが友と出会う事によって、その可能性は「未知数」になる。

僕達がどこまで自分の能力を引き出せるのかはこの「出会い」が握っているのかもしれない。

その効果が「質」によるか「量」によるかは個人によって変わってくると思うが、「出会い」というものが、僕達一人一人の人生を彩る重要な要素になるという事は間違いない。

この旅で起こった数々の掛け替えのない出会いが、孤独だった僕にその事を気づかせてくれた。

一先ず、僕のアメリカ旅行はここで幕を閉じるが、僕の「人生」という名の旅はこれからも果てしなく続く。

今の僕には到底想像出来ないようにエキサイティングに。

悲しい事や苦しい事、辛い事も含めて今からわくわくしながら待ち受けている。

この先、僕にどんな運命が待ち受けていたとしても、誰のものでもなく、それこそが僕の人生なのだと今は思えるから。

第64話 池袋駅ビル レストラン街編

ニックスを見送りに行く当日は正午に高田馬場駅の改札の内側で待ち合わせをしてあり、少し早めに家を出て待ち合わせ10分前には高田馬場駅に到着した。

暫くして、ニックスの荷物を分担して重そうに抱えながら運んでくる3人組が現われた。

ニックスの荷物は、とても一人分の荷物とは思えない量で、3人で分担してやっと一人分と言っても過言ではなかった。

4人揃ったところで、山手線に乗り込み池袋へ向かった。

池袋に着くと、まずニックスの乗る成田エクスプレスの切符を購入する事から始めた。とは言っても、僕は荷物の見張り番に過ぎず、英語の得意なヒデヒトさんにサポートは任せてしまった訳だが。

無事に成田エクスプレスの切符を購入すると、出発まで2時間弱時間があるようなので、ゆっくりお昼が食べられそうな池袋東武百貨店内にある「レストラン街スパイス」へ足を踏み入れた。

レストラン街スパイスは、総店舗数54店舗と日本最大のレストラン街で、この日本最大規模のレストラン街を目の当たりにするとニックスはたいそう驚いていた。もちろん、僕もこのレストラン街には初めて足を踏み入れたので、例外ではなく相当にびっくりしていたのは言うまでもないのだが。

あまりにも店舗数が多く、全部見て回っている時間もないので、「日本一の親子丼」という宣伝文句が印象的な「銀座 縁」というお店に入った。

僕は、当然「日本一の親子丼」を注文し、ニックスも僕に続いた。

どの辺が日本一なのかを体験してみたかった訳だが、確かにすごく美味しい訳だが、グルメでない僕には、日本一かどうかの判断する事はとても出来なかったのであった。

何はともあれ、ニックスも「日本一の親子丼」を食べて、結果的に満足していたようなので一件落着と言ったところだ。

お腹も満足したところで次行こうかという事になり、会計で自分の分の料金を払おうとしたところ、ヒデヒトさんに「いいのいいの」と強力に僕の分まで払ってもらってしまった。

奢って貰えたから優しい人だなんて一概には言えるはずがないが、ヒデヒトさんもアツコさんも、部外者の僕でさえ、友人として一貫して暖かく迎え入れてくれていた。

そんな出会って間もないだなんて微塵も感じさせない4人組は、パルコ内の不二家のレストランに入った。

途中、アツコサンがいつの間にかどこかへ消えてしまったので、不二家のレストランの一角に男3人という異様な光景となってしまった訳だが、今さっき昼飯を食べたばかりな僕等男3人組は、周りの事など気にせずに、まるで女の子グループのように甘いデザートを注文する事になった。

個人的に、僕は日本に帰ってきてから和菓子の甘さに目がなくて、この時もとても全部食べ切れないと思われたが、特大のあんみつを注文してしまったのだが、思いの外おいしくて、あっという間に平らげてしまった。

アメリカ旅行してみて、漠然としていながらも日本の良さを再確認した事はいくつかあるのだが、これだけは難しい事なしにはっきり言える。和菓子はマジでうまい!!!

暫くしてアツコさんも戻ってきて、何をしていたのかと思いきや、どうやらニックスへのお土産を買いに行っていたようだ。

僕はこの時も当然お土産なんぞ用意しておらず、こういう事に全く気が利かなくて何故か怒られる事も多い訳だが、こういうところは捻くれていて、お土産をくれという人にはあげたくない。日ごろの感謝を示すなら、何かを買うというより、お金をかけずに心を込めて何かを作る事をしてあげたいのだ。

プラダのバッグを買うだとか、高級車をプレゼントしてあげるだとか、とにかくお金を貢いであげるだとか、そこに気持ちがなければ、その時の感情は長続きせず、せっかく貰った高級バッグでさえすぐに思い入れがなくなって捨ててしまう事になるかもしれない。

僕はこんな人間の温度の感じられないやり取りはしたくないし、してもらっても素直に嬉しいと思えない。

僕は、近いうちにニックスに会いにシンガポールへ出かけるだろう。

旅行というものは、お金はかかる癖に物理的にはほとんど何も残らないものなのだが、物理的には何も残せなかったとしても、思い出としてニックスの心に一生宿り続ける事となり、それがニックスへの一番のお土産になるのだと思うから。

アツコさんも揃ったという事で、ヒデヒトさんが予め注文していた特大パフェを差し出したところ、アツコさんは心底うんざりしているようだった。それが僕等の狙いだった訳だが。

ニックスとはもう何日間も一緒にいる訳だが、彼の話は尽きる事を知らなかった。

日本旅行中の京都の金閣寺を訪れた時の体験談から、お得意のマーケティングの話などいろいろ盛り上がった訳だが、特にシンガポールの結婚適齢期の話はとても興味深かった。

ニックスはこの時32歳で、焦って結婚を考える歳ではまだないと語っていた。

実際、シンガポールの結婚適齢期は日本よりずっと高く、30代中盤だと考えられており、実際の結婚率も先進国特有の低さらしい。

 日本以上に、シンガポールは学歴志向の風潮が強いため、女性も男性と同様に一生懸命勉強し、大きな会社に就職して同じ立場で働くのだそうだ。

 日本も多かれ少なかれ同じような傾向があり、同じように結婚率が低下しているという事は良く納得出来た。

それはさておき、シンガポールの男性は結婚すると、新婦の為に結婚式の費用から何から何まで面倒を見るそうで、ニックスがその説明の中で「エブリシング(すべて)」を強調して話したのだが、すかさず、アツコさんがヒデヒトさんに向かって、「エブリシング、エッブリシング、エッッブリシング・・・」と繰り返した。

ヒデヒトさんは思わずたじたじになってしまったのは言うまでもないが、この見事なコントを見て、ニックスはいつまでも笑いが止まらなかった程おかしかったようだ。

僕も思わずつられて爆笑してしまったのも言うまでもないが、この何でもないような体験で、シンガポール人と日本人の笑いのツボが確かにあるという事が良く分かったのだった。

最後に、僕は「日本で一番良かった場所は?」という質問をニックスに投げてみた。すると、彼は僕と行った「湘南平」だと言ってくれた。

ニックスの目からは、横浜でも箱根でもなく、あの日本を代表する名所の金閣寺でもなく、湘南平だったのだ!

僕はその事がただ嬉しくてしょうがなかった。

第63話 池袋見送り計画編

翌日の11月24日は、実は僕の誕生日だったのだが、この一連のアメリカ旅行後の計画をしているうちに、いつしかその事を忘れてしまっていた。

この日僕は出社日だったので、起床後すばやく仕度し、僕達2人は朝8時には家を出てバスに乗り込んだ。

もしかしたら、これが最後になるかもしれないと思えば思うほどに、僕等を取り巻く空気は重くなった。何か切り出さなければならないが、どんな事から切り出すのが自然なのか全く検討が付かなかった。

そうこうしているうちに、バスは大和駅に到着してしまい、僕等は足早に新宿方面行きの小田急線に乗り込んだ。

電車の中にて、ニックスがこの日辿るルートの確認と、簡単なアドバイスは行ったのだが、やがて、電車は僕の仕事場の駅に到着してしまい、挨拶もままならないままお別れを迎えてしまった。

その後、仕事場で作業を開始するが、何をするにも仕事が手につかなくて、何としてもこの尻切れトンボの状態を打開したいとばかり考えていた。

思いの他、その答えはすぐに見つかった。

意外と簡単な事だった。

ニックスがシンガポールへ帰国する11月26日(土)に彼を見送りに行けば良いのだ。

という事で、仕事場から家に帰ると、すぐにニックスにメールを打った訳だが、日本には公衆ワイヤレスLANが使用できる場所は限られていて、それまでにニックスがメールを見られる保障はどこにも無かった。

幸い、ニックスからその日のうちに返事が帰って来て、池袋までだが、当日はヒデヒトさんとアツコさんも一緒に、ニックスが成田エクスプレスに乗車するところまで見送りに行く事となった。

実は、ニックスを見送りに行く翌日にはTOEICの試験が控えていた。

正直言って、4ヶ月程前に受験したTOEICでスコアが550点と伸び悩んでおり、それ以来、仕事が鬼のように忙しくなってしまった関係で、TOEIC対策が全く思うように進んでいなかった。

さすがに直前くらいはしっかり対策したいなと思っていた訳だが、「ニックスを見送りに行く」という事と、「TOEIC対策をする」という事を天秤にかけた時に、僕は思った。その二つを両立するような方法があるのではないかと。

例えば、参考書や問題集などでTOEIC専門の対策をするのが、必ずしもTOEICのスコアに結びつくとは限らなく、日本にいるとなかなか体験できない「実戦」にこそ、真のTOEIC対策への布石があるのだと僕は思う。

もしそうだとすると、「ニックスを見送りに行く」=「TOEIC対策をする」というシンプルな構図が出来上がり、僕は天秤にかける対象を見誤っていたという事になる。

現に、僕はこの時受験したTOEICのスコアは645点と、前回より100点近く伸ばす事が出来た。ほとんどTOEIC専門の対策をせずに。

今回のアメリカ旅行においても、会社の客先に無理言って6営業日分の有給を取得して無理やり断行してしまった為、その旅行の前後は溜まっている仕事に追われ、それこそTOEIC対策どころではなかった。

そんな中で、僕がそのリスクたっぷりのアメリカ旅行に踏み切ったのには、こそこそと日本で参考書ベースの学習を進めるより、もっとダイナミックにアメリカ旅行でそれ以上の成果を持って帰ってきてやる!という意気込みがあったからだ。

結局、TOEICを始め、その他数多くある英語テストのスコアを伸ばす一番大きな秘訣は英語のアレルギーをなくす事にあると僕は思う。

TOEICで高得点を狙おうとした時に必ず立ちはだかってくるのが「時間」で、リーディングセクションでは特に短時間で多くの問題を解く「スピード」が要求される。「あぁ、長文問題だ・・・」と怖気づいた時点で、致命的な時間のロスが発生してしまうのだ。

こういった英語アレルギーをなくすには、英語を勉強して学ぶという考え方ではなくて、英語を使って実生活の中で実戦していける環境を作るという事が一番近道なのだと、今回の体験を通して僕は確信出来た。

第62話 町田居酒屋編

高尾山を後にした僕等は、京王線、横浜線と乗り継いで町田まで戻り、適当な居酒屋に入った。

既に時計を見ると20時近くで、そんなにゆっくり飲めないだろうと思っていたが、ハジメさんのシームレスな(継ぎ目のない)通訳の効果も手伝ってニックスも含めて話が弾んでしまい、終電近くまで飲む結果となった。

ニックスは、自国の事なら何でも知っているのではないかと思えるくらい何でも誇りを持って自国の事を語っていた。

シンガポールの歴史について、文化について、政治について、グローバルな視点から見た自国民の特徴や、日本と対比した上での相違点など、あらゆる事を語っていた。

こうやって、日本の事について誇りを持って語れる日本人が果たしてどれだけいるだろうか?

僕も例外ではなく、日本の事で誇りを持って話せる事なんてほんの少ししかない訳だが、語れないほど、日本には歴史や文化が少ないという訳では決してない。

1965年に建国されたシンガポールは、まだ数十年足らずの歴史しかないのだ。

一方、僕達の住む日本という国は、シンガポールとは比べ物にもならないくらい歴史が長く、はちゃめちゃとも言える波乱万丈の歴史があり、日本民族の間で長年育んできた島国特有の色濃い文化も持ち合わせている。

外から見れば鮮明に映るが、内にいる限りそれは見え難いままなのかもしれない。

まず、僕等の国は原爆を経験した唯一の国だ。

また、日本の学校の授業では詳細は伏せてあるが、第二次世界大戦だけとっても、日本軍は、シンガポールを始め、満州から東南アジアの国々への侵略を繰り返し、いくつもの極端な過ちを犯した。

世界的に言えば、ヒトラー率いるドイツや、スターリン率いるソ連がクローズアップされがちだが、実際、当時の日本軍もそれに負けないくらいの極端な悪行を重ねていた。その度にいくつもの想像を絶する苦境を経験し、持ち前の大和魂でそれらを乗り切ってきたのも事実だ。

今は、残念ながら、多くの日本人が平和ボケしてその誇りを忘れつつあり、生きる意味さえも見失ってしまっている人も少なくない。

僕らの国は、戦争や紛争とはほとんど無縁の物理的には極めて安全な国にも拘わらず、信じられない程多くの日本人が、毎年、精神的な理由で命を落としてしまっている。

僕等は、これを新たな緊急事態として深刻に受け止めなければならない時期に来ている。

少なくとも、僕はこれを黙視することは出来ない。

と、僕の中の日本像を僕の観点から書き出してみた訳だが、僕の浅い知識で日本の事を語るとしてもこれくらいの概要程度でしか語る事が出来ない。

 その点、ニックスの話を聞く事で、日本人として、日本の事をもっと勉強しなければならないという事に気付く事が出来て良かったなと思う。

 僕の友達も皆、ニックスの話を聞いて良い刺激になったようだった。

電車の時刻も忘れて話しに熱中していた為、いつの間にか終電時刻近くになっている事に気づき、バタバタと慌てて居酒屋を後にして駅を目指した。

この日は、ニックスを僕の大和のアパートに泊めてあげる予定になっていて、何とか大和までの電車に乗り込んでアパートまで帰る事が出来た。

アパートに着くと、極度の疲れの為、明日の起床時刻だけ決めて、布団だけ引いて2人ともあっという間に眠りについてしまった。

第61話 高尾山登山編

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神奈川大学平塚キャンパスを出て一旦自宅に戻り、母親の運転で平塚駅まで送ってもらい、電車で町田駅まで行き、僕の英語の先生のハジメさん含む友達数人と合流した。

この日は合流した友達と一緒に紅葉の色づく高尾山に登る予定で、横浜線で八王子まで行き、京王線に乗り換え高尾山口まで行った。

紅葉の見ごろという事で、僕の予想をはるかに超える人々が高尾山に訪れており、リフトもケーブルカーも行きと帰りで数時間かかるという情報が掲示板に書かれていた。

ここまで来て先に進まないという訳には行かず、僕等は片道分のリフトの件を購入し、リフトに乗り込んだ。

リフトは2人乗りで、僕はニックスと乗り込んだ。

日本でこそ、スキー場でリフトは日常的に運行されているが、ニックスにとってはこれが新たなスリルだったようで、「シンガポールではこんな危険な乗り物があったとしても政府が認めないだろう。」と語っていた。

やはり、僕等が当たり前の常識として認識している事が、海を越えてしまうと非常識という風に認識されてしまうものなのだなという事が再確認された。

リフトから見る紅葉の景色は絶景そのもので、桜とは違った美しさがあるなぁと思った。

桜は、「さぁ今から出発だ、張り切っていこう!」という勢いをとにかく感じさせてくれるけど、紅葉はやがて散っていく儚さがあって、僕を感情的にさせて一歩立ち止まらせていろいろ考えさせる。

四季というのは、僕等にとっては当然あって当たり前の事と錯覚してしまうけど、赤道直下の常夏のシンガポールにはこの概念が全くないのだ。

そう考えると、僕等はすごく幸せなんじゃないかと思った。

僕等を乗せたリフトはやがて終着点に到達し、降りそびれてもう一周する事のないように、2人でバタバタしながらリフトを降りた。

という事で、早速、高尾山の登山が開始された訳だが、早速、分かれ道に行き当たり、僕等は無難でない方のよりスリリングと思われる方向を選択してまた歩き出した。

その道は、人がすれ違うくらいの幅はあるのだが、断崖絶壁で、人と人がすれ違うときにどちらかがふら付いてちょっとでも肩がぶつかろうものなら普通に落っこちられる環境だった。

にも拘わらず、ガードレール等の落ちないようにする仕組みが全くなくて、ここで何人の人が命を落としたのだろうと考えてみたが、実際は事故が起これば対策を施さざるを得ないので、幸いここで命を落とした人はいないという事なのだろう。

僕はこの環境をめちゃくちゃ恐怖に感じていた訳だが、ニックスは何故か平気だったようで、歩くのが早くて付いていけない程に彼の歩みは堅調だった。

さっきのリフトより、こっちの方が間違いなく危険度は高いと思うだけどどうなのだろうか・・・

さらに驚いたのは、こんな危険な場所をヒールの高いブーツで歩いている女の子がいたので、僕には命知らずとしか思えなかった。

そうこうしているうちに辺りはすっかり暗くなってしまい、非常に残念だったが、安全策を取って僕らは引き返す事にした。

ケーブルカー乗り場に到着すると、リフトは時間外の為止まっており、ケーブルカー待ちの人が長蛇の列となっており、係員に後どのくらい待ちなのかを聞いてみたところ、歩いて下山しても時間的にはそれほど変わらなかったようなので、僕等は歩いて下山する事にした。

帰りの道中は街頭がほとんどなく、本当に真っ暗だったので携帯のライトでも付けてないと真っ直ぐに歩けているかも不安になる程だった。

僕がそんなふらふらな状態なのに対し、Nixkはしっかり前を見つめ着実に歩みを進め、こういったとこから生き方の差が現われてくるのかという事を痛感する結果となった。

第60話 母校編

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湘南平の駐車場からまた車に乗り込み、今度は僕の母校の神奈川大学平塚キャンパスに向かった。

神奈川大学の平塚キャンパスは、平塚駅から相当離れた周りにコンビニの一つもない山奥にあり、豊かな自然に囲まれてはいるのだが、遊び盛りの大学生には物足りない事請け合いといったキャンパスだ。

ちなみに、神奈川大学は、県名を使っているにも拘わらず国立ではない唯一の大学だ。

祝日なので学生はほとんどおらず、活気がなかったからなのか分からないが、アメリカで見てきた名門大学に比べてしまうと、果てしなく見劣りしてしまった。

車でキャンパスをぐるっと一周してみて、適当なところで降りて軽くキャンパス内を歩いてみた。

う~む、確かに4年間通ったキャンパスなのだが、全然思い入れがないのは何故だろうか。

ニックスも、この何でもない大学キャンパスから感じた事はほとんどなかっただろう・・・

僕は、大学の4年間、勉強が嫌いだからって音楽くらいしか打ち込むものがなく、この貴重な大学生活を無駄にしてしまったという未練にも似た気持ちがあって、この年になって、もう一度大学生活を最高に意味のある形でチャレンジしたいと思っている。

それは恐らく日本の大学では難しく、それも誰かに頼っていたらまず不可能だろう。

だから、僕は仕事をしながら自分で英語を勉強し、学費を溜めて自分の力で教育の国アメリカへの留学を実現させようと奮闘中だ。

幸い、今、僕のすぐ傍には、僕のその目標をほぼ達成している先駆者がいる。その人とはまだ言語的な障害があるのだが、彼は僕の向かいたい方向を理解してくれているし、僕が働きかけなくても、不思議とその人は僕をその方向に導いてくれる。

この出会いが偶然のものなのか、必然的に起こったのか今の僕には判断出来ないが、どちらにしても、僕が勇気を振り絞って今回のアメリカ一人旅を断行していなかったら起こらなかった。

僕が、自らチャンスを掴みに行った結果、この出会いが導かれたという事は紛れもない事実なのだ。

やらなかったら、当然の事ながらその効果は0(ゼロ)だった。

だが、僕はそれをやったから、その効果は「未知数」となった。

もしかしたら、そういったチャンスなんてそこら中に転がっていて、手を伸ばせば常に届く範囲にあって、僕達一人一人が行動範囲を広げていろんな物事に関わるようになれば、各人が自分にあったチャンスを掴み取る事なんて思いのほか容易なのかもしれない。

第59話 湘南平編

11月23日(水)勤労感謝の日。

僕等は8時頃目覚め、のんびりと身支度をして、9時前には母屋に行き、うちの母親に作ってもらった朝飯を一緒に食べた。

うちの母親の手料理だが、ニックスに少しでも日本の「おふくろの味」を経験して欲しかった。

だが、シンガポールでの朝飯は日本ほどヘビーな内容ではないらしく、ここでも文化の違いに驚いていた。

シンガポールでは、朝飯にはまず米類は出てこないらしく、もっと軽い麺類などが主流なのだそうだ。

朝飯を食べ終わると、うちの家族の車を借りて、まず、平塚の観光地の一つの湘南平に向かった。

湘南平は、標高200メートル足らずの小高い丘陵で、周囲に高い山も無く、東に江ノ島、三浦半島、房総半島、南に大島、伊豆半島など相模湾を一望し、西には箱根、富士山、北に大山、丹沢山塊、さらには遠く新宿副都心の高層ビルまでが見渡す事が出来る。

頂上部の展望台は、テレビ塔下部の金網越しにみるものと、レストランやトイレも備えた眺望抜群の立派な展望台の二つがある。

夜景がきれいな事もあり、元々夜のデートスポットとして有名だったのだが、いつの頃からか、「恋する二人の名前を書いた南京錠をここにかけると、一生別れない」という噂が若者の間に広まり、テレビ塔に南京錠をかけに来るカップルが絶えなくなり、夕暮れ時ともなればその南京錠が虫の大群にも見えて不気味とさえ感じられるようになってしまった。

湘南平の夜景も好きだが、僕は気持ちよく晴れた午前中に一人でぶらっと来るのが好きだ。

澄んだ空気を吸いながら、頭を空っぽにして展望台から見渡せる自然に満たされた平塚の風景を見ていると、ちっちゃな事にくよくよしていた自分が過去の自分だったと思えるようになって、不思議と新しい自分に生まれ変われた気になれるのだ。

案の定、ニックスも僕と同じ感覚を味わってくれていたようで、その表情は幸せに満ちていた。

ニックスは言った。

「こんな素晴らしいところが、日本でそれほど有名な観光地ではないという事が信じられない!外国人ツアーリストがここに来たら間違いなく満足するよ!宣伝方法を工夫すれば間違いなく需要は見込める!」

そんな場所が僕の家から歩いて行ける所にあるのだ。

僕はこの平塚の豊かで飾らない自然に育まれて生きてきた。

無理して背伸びなどせずに自分らしく自然体で生きるという事は、この土地に教わった事なのかもしれない。

僕は、人に進んで紹介したいと思える、愛して止まないホームタウンを持てて本当に幸せだと心から思える。

第58話 実家編

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大好きやを後にして、実家に向かうバスの車内で出発を待っていたところ、これまた偶然、仕事帰りの僕の父親が同じバスに乗り込んできた。

「おう、父ちゃん!」と呼びかけてどうやら気付いたようだが、車内が混んでいた為、父親はどんどん奥の方に押しやられてしまい、結局、ニックスを紹介出来ず終まいだった。

うちの実家は、メインの一軒家の他に離れの古~い一軒家がある。

恐らく築70年以上の極めて古風な平屋で、元々ぼっとん便所だったのを無理矢理洋式便所に変え、台所と風呂を改築して何とか住めるようにはしてはあったが、隙間風は容赦なく入ってくるし、屋根裏には何かしら動物が住み付いてしまっていて、夜中にポルターガイスト現象のごとく暴れまわるのだ。

思い切って全部立て直さなかった訳は、外見が新しくなってしまうと固定資産税が新築の設定になってしまうらしく、外見が古いままに保ってあれば固定資産税は安く済むからなのだそうだ。

僕の産まれる前は皆この離れの家に一家全員住んでいたらしいのだが、今では弟が一部の部屋を使っているだけでほとんど使われてなく、空いている部屋に僕等は寝泊りする事になっていた。

そのお化け屋敷のような家に案内したところ、ニックスはその日本の古風な家独特の雰囲気に興味深々になっていた。

昔、大学の頃にやっていたバンドで、無謀にもイタリアのバンドを日本に呼んで手作り全国ツアーをした事があったのだが、その時も新宿でライブをやった帰りに、ここにイタリア人6人を寝泊りさせた事があった。その時も彼らは皆興味心身になり、あちらこちらに散らばって行ってしまって収拾がつかなくなってしまった事があったが、ニックスもまた例外ではなかったようだ。

 文化の違いとは、こんなにもダイナミックなカルチャーショックを伴うもので、逆に、僕がシンガポールやイタリアに行ったとしたら、これと同等か、それ以上のカルチャーショックを受ける事になるだろう。

 違いを知って苦痛を伴う異国の文化もあるだろうし、知って得するものもあるだろうし、知らない方が良いものももしかしたらあるのかもしれない。だが、知らなければならない異国の文化というものもきっとあるのだと思う。

 それは、学校の教科書で学習しただけ得られるものではなく、きっと異国の地でその文化にどっぷり浸かって来ないと得られないものなのだろう。

 僕は、一度でも良いから異国の文化に身をどっぷりと浸してみたい。そうでもしないと一生答えが出ないから。

興奮冷めやらぬニックスはこう言った。

「こういった場所は、外国人にとって絶好のアピールポイントだよ!こんないいとこを遊ばしておくのは勿体無い!宣伝方法を含めてやり方を工夫すれば、絶対にビジネスとして成立するよ!」

スタンフォード大学やワシントン大学などでマーケティングを学んできた彼が言うのだから、かなり信憑性はあるのだろうな。

興奮してしまってなかなか寝ようとしてくれないのも、ここに寝泊りしたイタリア人の傾向と一緒で、ニックスが風呂に入って布団に入ってくれるまでに、かなり時間がかかったのだった。