「当事者性」カテゴリーアーカイブ

熊本地震の被災地を給与1カ月分で支援プロジェクト

熊本地震発生から一カ月が経過していますが、自分なりに無理ない範囲で支援をしていこうと、何かと理由をつけながら長期で柔軟に「給与の一カ月分」で支援していくプロジェクトを遂行中です。

地震から1カ月で、現在までに15万円弱の支援をしました。
  • 緊急ということで 12000
  • 緊急ということで 50000円
  • 母の支援を引き出した 10000円
  • 売電収入で儲けが出ると見越して 10000円
  • 会社の飲み会を見送り 10000円
  • 自動車購入初年度のガソリン代で浮いた分 10000円
  • 自転車旅行で新幹線代が浮いた分 20930円
  • 小田原城入場券 500円
  • 大分県の別府温泉が危機を迎えているということで現地でお金を落としてきた 21650円
今のところ合計:144080円
〜〜〜関連ツイート〜〜〜

既存のスペース、資源、エネルギーを駆使して「慎ましく」イノベーションを起こす

TEDのスピーチって、同じような考えに至って、初歩段階にしろ、まさに実践中のことが意外とあったりします。

Creative problem-solving in the face of extreme limits / Navi Radjou

彼が言っているfrugal innovaionの3つの原則を自分なりの言葉にしてみました。

  1. 顧客に感銘を与えられるものというより、簡単に使えて広く使われることを目標に設計する
  2.  広く普及している既存のリソースを駆使する
  3. トップダウンでいくつかの巨大な工場や小売店を動かすより、無数の独立した極小の製造、販売ユニットがそれぞれ持ち味を発揮して活動できる環境をつくる

つまり、一握りの天才に神がかりなイノベーションを期待するんじゃなくて、自分を含めた誰もがそれぞれの生活の範囲で持てるあらゆるもの・ことを駆使して慎ましくも列記としたイノベーターになろうってことだと思います。

自分も、大業を成し得たこともないけど、成す必要もないし、それを狙う必要もないかなと思ってます。自分の生活の範囲と、能力(キャパシティ)の範囲で、小さなイノベーションを多発していくだけなのかなと。

【読書6】21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ(佐々木俊尚著)を読んで

この本は、日本式の「リベラル」勢力や本場のリベラリズム、従来のコミュニタリアニズムの限界を見越し、数々の大問題を抱える「日本」という航空機が、現実的で体温の感じられるような「不時着点としての第三の可能性」を探る論考だ。

まず驚くのが、大江健三郎氏、坂本龍一氏、内田樹氏、山本太郎氏など、錚々たるメンツに対して、ある意味、完全にケンカを売っている。理由は、彼らの「リベラル」的な運動は、政治哲学によるものではなく、「反権力」という「立ち位置」に過ぎないというもの。

では、本来のリベラルとはどういうものか?この本には、「現代のリベラルの基本理念」として、以下のように書かれている。

人々には生まれながらにして自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公正さを取り除かなければならない

今、「戦争反対」や「徴兵制反対」を主張することは、果たして「リベラル」といえるのだろうか?

僕は、2007年に「日本の平和憲法が機能する条件」というブログ記事を書いた。一部を以下に抜粋する。

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「戦争」自体に、良いも悪いもないと僕は思ってます。

過去の歴史を紐解いてみれば、戦争を起こさなければならなかった場面はいくらでもあったのだと思います。

コスタリカが直面した1948年の内戦もそうです。

当時、腐敗を極めていたカルデロン政権に言論弾圧を受け、メキシコに追放されたフィゲーレスが、社会民主党を組んで政権に挑み、選挙無効などの独裁的な手段に出る政権に対して武装発起しました。
内戦は6ヶ月ほどで終結し、約2000人の犠牲と引き換えに、コスタリカは、民主主義と軍隊を廃止する平和憲法を手に入れました。

僕は、この戦争については、肯定も否定も出来ません。

ただ言えることは、この約2000人の犠牲の責任は、コスタリカがこんなにもぎりぎりの選択を迫られるような状況になるまで放っておいた世界中の人々にあるということです。
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8年経った今でも同じ考えを持っていて、これだけ絶望的に入り組んでしまった世界情勢下では、日本が武力による支援を検討すべき国や地域があってもおかしくないと思っている。そんな必要性を生んでしまっているのは、紛れもなく「無関心だった僕たち」「十分な働きかけをしてこなかった私たち」の責任なのだ。

まずはその反省を共通の出発点として議論を始めないといけない。にもかかわらず、自分を棚上げして「自分たち(正義)」と「権力(悪)」という構図を作り上げるに終始するのであれば、確かに、それは政治哲学というより、「立ち位置」に過ぎないかもしれない。立ち位置にこだわっている以上、本物の変革はあり得ない。

そもそも、民主主義国家では、権力者は私たち「国民」だ。だとすると、味方も「私たち」であり、敵も「私たち」であるはず。本当に向き合うべきは、自分たちが(間接的にでも)選んだ政治家や政府ではなく、あくまで「私たち」であるべき。そうだとしたら、働きかける先が政治家や政府だけになってしまうのは、本末転倒なのかもしれない。

日本の「リベラル」勢力は、「独裁主義」と聞いただけでアレルギー反応を示し、無条件に「悪」というレッテルを張ってしまうかもしれない。しかし、この本では、中国やシンガポールの例を出し、独裁主義についての捉え方やイメージの再構築を提案している。

以前、今一度、「国民主権」について考えてみたいというブログ記事で、民主主義と独裁主義について以下のように書いた。

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「民主主義」というかけがえの無い自由を得ることと引き換えに、僕たちは、実はとんでもない責任を背負っていることになる。民主主義は、機能させれば最高の結果に行きつくことが出来る。その代わりに、機能させられなければ、独裁主義よりひどい結果になり得る
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このジレンマは、僕たちが本当に求めている自由とはどちらなのか?という下記の究極の選択肢に現れている。

  • 生存は保証されていないが、自由
  • 自由ではないが、生存は保証されている

また、この本では、従来の「リベラリズム」と「コミュニタリアニズム」の限界にも切り込み、第三の方向性を模索している。

リベラリズムは、「普遍的なもの」「理想的な個人」を目指すもの。ただし、これは本当は存在しない幻想だとしている。「ものごとはたいていグレーであり、グレーであることをマネジメントするのが大切である」という考え方や、ヨーロッパ的な価値観が実は万能ではなかったということからそう断じている。

コミュニタリアニズムは、共同体に参加することに価値があると考え「参加」を求めるもの。ただし、内と外のあいだに壁をつくって、結果的に外側(参加しない人)を排除してしまう。共同体内の結束や忠誠という文化に耐えられる人は手厚く守られるが、その文化についていけない人は「自己責任」という荒波に放り出されることになる。

この二つの課題点をクリアする第三の方向として、筆者は「ネットワーク共同体」という概念を提案している。その概念について、筆者は以下のように表現している。

ネットワーク共同体における人と人の「線」は、ひとつではない。さまざまな線がさまざまな太さで、さまざまな人たちを結びつけている。そこには多層化されたレイヤーがあり、さまざまなレイヤーのさまざまな線上に人々がいる。民族や国家、地域など多層・多元化された線によって立体的に構成されたオープンな三次元共同体なのだ。

これは、従来の日本の「ムラ」のような共同体とは一線を画していて、インターネット上のSNSのような、人と人とのつながりがゆるく広く多層的で柔軟に張り巡らされるような共同体だと理解している。内と外との境界線が極めて曖昧で、右や左などの両極端はなくなり、むしろ大半がマイノリティーに属し、それが当然という認識になる。

当然、両極端が生まれなければ大きな対立は生まれないし、マジョリティが存在しなければ排除は行われない。多層化・多次元化され境界が曖昧な共同体構造では、意識しなくても参加することもあり、いつの間にか当事者性を持って行動しているということもあり得るだろう。このような社会構造化であれば、自由や富を手放す代わりに、例外なくみんなが最低限の豊かさを享受して生きていけるのかもしれない。

気が遠くなるほど多くの大問題を抱える日本社会において、著者が見極めようとしているのは、あくまで現実的で体温の感じられる「不時着点」だ。時には妥協も必要かもしれないし、抗議活動の他にもやるべきことは確実にある。僕たちには、足を引っ張り合っている暇などどこにもない。

僕たちが「根本的に何を目指すべきなのか?」について課題点を整理し、その原点に立ち返る必要性を痛感させられる一書だ。

原発にも化石燃料にも依存しないライフスタイルへ

青春18きっぷ+5Linksの九州旅行で、再稼働を準備中?の川内市内にも立ち寄った。たまたま通っただけだけど、いろいろ考えることがあって、とても複雑な気持ちになった。

「安全保障、コスト、温暖化対策より絶対的な安全性が大切と考えるか、事故のリスクはあるが、原子力を利用するメリットが大きいと考えるか」

この記事のすべてに同意する訳ではないけど、原発の再稼働に反対する上でも目を逸らさずに対処しなければならない問題や、実際に自分たちの考え方や行動を変えなきゃいけないことが分かる。この問題は白黒付けられるものではなくて、やっぱりグレーゾーンで議論して現実的な突破口を見つけていくべきだ。

もちろん、僕は原発推進には反対だけど、原発の代わりに化石燃料が燃やされて地球が温暖化することにも反対。どちらも未来の世代を危機に晒すことに変わりはない。

川内原発の再稼働に関して、英国の駐日大使が英国の公式サイトの中の原子力発電所の再稼働に関して:駐日英国大使からのメッセージの冒頭で、下記のように見解を表明している。

英国政府は、この度、九州電力株式会社が原子力規制委員会と鹿児島県の承認を得て、川内原子力発電所1号機の再稼働を決断されたことを歓迎いたします。

必ずしも、英国が正しい考えを持っているとは言わないが、日本ではすっかり忘れ去られている感があるけど、温室効果ガスによる地球温暖化などの気候変動の対策で、日本は完全に後退している。今、気候変動の対策で、日本がどのような期限と目標を掲げているかを意識している人も少ないだろう。

このことだけ考えても、原発を止めれば解決なんてことはあり得ない。原発も温暖化もやめるには、僕たち自身がライフスタイルに革命を起こし、人々の行動に影響を与えていかなきゃいけない。

問題の根源は、エネルギーを爆発的に消費してる人たちが、エネルギーを浪費するばかりで、十分な価値を生めていないことだと。浪費してるのが誰かというと、紛れもない僕たち。僕たちがライフスタイルを劇的に変えないと話にならない。

実は、個人的に、2012年の段階で、「脱原発後の持続可能な暮らし」の現実的なイメージを記事にしてあった。

そこでは以下の4つの条件を示した。

  1. 生活圏の分割・縮小
  2. 住宅を含めたスペースやモノの他人との共有
  3. エネルギーや資源の価値的利用(浪費や贅沢には課税)
  4. 情報や芸術などモノより「価値」を交換する経済

このアイデアが必ずしも正しいとは限らないけど、反原発の人の声の大きさやデモの大きさの割には、こういった原発のない現実的なライフスタイルのイメージや、反対活動とは別の自発的なライフスタイル変革の行動が見えてこないのが残念だ。「脱原発」だけが目的や目標になってしまうのも不十分だし、当事者意識がなく実際の行動が伴わない反対活動も社会に混乱を招くだけだ。

個人的には、元々、電気やガソリンなどのエネルギーを浪費する社会は変えないといけないと10年位前から意識して行動してるから、「エネルギーの効率的・価値的利用による減電」という目標はブレない。その目標から言えば、原発への依存も当然なくしていく必要が出てくる。

枝葉の問題とは言わないけど、原発の問題も数ある問題の一つ。これをシングルイシューとして議論を進めるのではなく、反対活動をするにも、できる限り多くの関連する問題を包摂し、目的や目標をさらに高いステージに押し上げて、現実的な議論をすること。

もっと大事なのは、自分自身が体を張ってでも、身を切っても、行動やライフスタイルをあるべき姿に近づけていく必要があるのではないだろうか。

 

公明党支持だけど集団的自衛権に反対の場合

二つ前のブログ記事で、集団的自衛権の行使容認に反対の意思を新たにした旨書きました。
知っている人も多いと思いますが、僕の支持政党は公明党です。公明党は自民党と連立政権を組んでいて、一緒になって限定的とはいえ集団的自衛権の行使容認を進めています。支持する政党が望まない決断をし始めた時に、どう考え、行動するべきでしょうか?「抗議する」とか「支持をやめる」という手段は当然有りえますが、その政党がそういう決断にに至るまでの前後の文脈的なものや事情を考慮するべきだと思います。

確かに、自民党と一体となって一連の安保法案を推進していて公明党も悪者のように扱われても仕方ないんですが、公明党としてもこの安保法案を推進したくないんです。反対の声をあげたり、連立政権から離れたりしないからといって悪だと決めつけるのは早すぎると思います。

単独で議席数2/3を維持する自民党に対して、政党にしても個人にしても、自分たちの限られた影響力をどう有効に使うかにはいろんな考え方や手段があります。

前提となるのは、2013年の参院選と2014年の衆院選で自民党を圧勝させてしまったという事実。この時点で、安倍さんが集団的自衛権の行使容認を強行することは目に見えていました。

この流れを覆したければ、これらの選挙でそれ相応の行動を起こさなければいけなかった。その責任の一端は、今、各地でデモを起こしている人たちにもあるはずです。要は、この二つの国政選挙の結果で、安部首相の集団的自衛権行使容認の大筋の流れば誰も止められなくなってしまった。

この前提に立つと、自分の(自分たちの)限られた影響力をどう使うかで、民主党のように採決の時にプラカードで抗議することもあれば、国会前でデモをするのも手段の一つ。

公明党も、人数比で言えば微力ながら、法案に賛成する代わりに、可能な限り、容易に戦争に突き進まないための具体的な歯止めをかけようとし、実際に打てた手もあります。それは立派な一手段であり、一方的に責められることではないはずです。公明党がいなかったら、この安保法案は確実にもっとひどいものになっていました。

次の国政選挙は来年の7月。ここに焦点を絞った活動でないと、どれも空振りで終わってしまうと思います。その上で、個人的に外してはいけないと思うのが、以下の3点です。

  • 今の流れを作ってしまった責任の一端は自分にもあるということを自覚する
  • 好き嫌いを超えて、許容範囲を広げて同じ志を持つ人と連帯する
  • 対政府で抗議活動をするのと同じくらい、身近な人や知り合いとの対話を大事にする

僕は今回の一連の流れで容易に公明党支持をやめるつもりはないけど、だからと言って何が何でも公明党支持を維持するつもりもないです。

とにかく、今まで通りこの3点を外さずに行動していくだけです。

【読書2】「オープンダイアローグとは何か?」を読んで

「オープンダイアローグ」という言葉と概念に1年ちょっと前に出会った時の衝撃を今でも覚えている。べてるの家のメールマガジン「ホップステップだうんVol.049」で初めて見て、その時に書いたブログが以下の記事だ。

「オープン・ダイアローグ(開かれた対話)」が病んだ社会の処方箋になる

このオープンダイアローグは、精神障がい、特に統合失調症で苦しんでいる人たちに素晴らしい効果を生むと確信した。僕は精神障がいの専門家でも何でもないけど、統合失調症やうつの友達や幼馴染と向き合ってきた経験からそう言える。

統合失調症の治療の主流は薬物療法や入院治療だ。幻覚や幻聴などの症状を薬や物理的に拘束して抑え込むということ。このオープンダイアローグでは、それを対話の力で解決してしまおうという試み。「対話」には、薬物や入院以上の可能性が秘められているのだろうか?

この本の著者+訳の斎藤環さんは、2013年からこのオープンダイアローグに魅了されているらしく、この本に収録されている海外の関連論文も含めた多くの文献を読み漁り、精力的に動いてこの本を短期間で出版までこぎつけたそうです。(斎藤環さんは2008年頃から個人的に注目してました。参考:変われば変わるほど変わらない人

まず、治療の成果の統計を見て驚いた。
これは、オープンダイアローグを実践するフィンランドの西ラップランドでの統計結果。

オープンダイアローグの患者は入院まで至る頻度が低く、対照群の患者の100%が投薬を必要としたのに対して、抗精神病薬を必要とした患者は35%でした。2年間の追跡調査では、対照群の50%に症状が残っていたのに対して、オープンダイアローグに参加した患者では82%が精神病の症状がまったくないか、きわめて軽微で目立たない程度でした。

この統計結果が本当だとしたら、ものすごい大発見だ。

また、ケロプダス病院では、職員全員がセラピストとしてのトレーニングを受け、チームでオープンダイアローグを実践することで、スタッフの職場定着が促進されているらしい。対話自体が、スタッフのメンタルケアや正常化に役立っているのかもしれない。

 

オープンダイアローグの肝は以下の3点らしい。

  • 不確実性への耐性
  • 対話主義
  • 社会ネットワークのポリフォニー

この3点について、以前学んだことの中からそれぞれ感じることがあった。

  • 不確実性への耐性
    これを聞いてピンと来たのは、「セレンティビリティ」とか「偶有性」という概念。「不確実性」とか「想定外」をポジティブに考えるということ。こういった「あそび」のような余地を残すことにより、「狙い通り」よりも良い結果が得られるかもしれない。
    オープンダイアローグも「予定調和」とは正反対で、「想定外」を当たり前のように受け入れ、肯定的に応答することで未開拓で誰も想像成し得なかった良い結果を導くことを狙う対話手法なのだと思う。

参考:セレンディピティ(SERENDIPITY)という概念に限りない希望を感じる理由

  • 対話主義
    「対話」というものは個人的にとても興味のあるもので、日常生活の中でも試行錯誤しながら実践して自分なりに研究している分野。
    対話とはディベートとは違い、勝ち負けのないもの。対立する必要も相手を言い負かす必要もない。むしろ、お互いの良いところを引き出すための雰囲気作りとか、自分の主張を抑えて傾聴に徹することも必要になる。
    この本には、「病的体験を言語化することが、なんらかの治療的変化につながることがある」と書いてある。自分の特異な体験を言語化出来ず、誰とも共有出来ないことが、どれだけその人を精神的に圧倒していくかということだと思う。
    また、「対話が目指すのは、患者の病的な発話のなかに潜んでいる、メンバー間で共有可能な発話を導き出すこと」とあり、対話に参加している治療チームは、傾聴に徹し、出来る限り開かれた質問を投げかける必要がある。
    この「質問の質」についても、以前、ブログに記事を書いたことがあった。

参考:対話の能力は、質問の質による

  • 社会ネットワークのポリフォニー
    ダイアローグ(対話)って、個人的なイメージでは、1対1でするものだと思っていた。だけど、このオープンダイアローグは複数人で、しかも、関係者が全員集まってするものらしく、かなりの人数で対話をすることになる。個人的な体験からも、1対1の対話に限界を感じる場面が多かったので、この機に複数人で対話の可能性についても考えてみたい。
    そして、みんなが集まらない限り、何も決められないことになっている。それ以前に、この対話の目指すところは合意を得ることではなく、封じられていた言葉を解放し、新しい意味として参加者全員が共有し、それぞれ自分の中で昇華していくことにあるのだと僕は解釈している。その為に、どんなに病的な発言に対しても受け止め、尊重し、丁寧に応答することが必要になる。
    対話は未完成なままずっと継続していくことになる。合意も決意も出来ないかもしれないが、参加者の間にくすぶっていたわだかまりやトラウマ、素直に言えなかった言葉などが適切に処理され、それぞれが自己完結のプロセスを踏むことが出来る。合意や結果は目的ではないが、結果的に副産物としてもたらされることになる。
    対話という場ではないかもしれないけど、会議の場における「ファシリテーター」というような役割の人が参加する対話の場がオープンダイアローグなのかもしれない。

参考:理想の経営(5-2)ファシリテーション・フォロワーシップによる経営革新

冒頭にも書いた通り、個人的にこのオープンダイアローグに大きな希望を感じている。

ただし、統合失調症などの治療のケースには、当事者の親族や直接の関係者以外は、やはり有給スタッフの対応が必要だと思う。それは、訓練されスキルのある専門家の方が良いっていう面もあるけど、やはり無給のボランティアで関わるには荷が重すぎて、モチベーション維持が困難だと思うから。

とは言っても、オープンダイアローグが必要なのは、何も統合失調症などの精神障がいの場合だけじゃないはず。僕たち一人一人が日常生活の中で少しずつ意識して実行していくだけで、重い精神障がいになる人が減るはずだし、自殺者だって減るはず。

そういう後ろ向きな面だけじゃなくて、自分が軽く見られ軽く扱われていると感じたり、誰にも声が届いていないという孤独感に落ち込んでいる人などが、オープンダイアローグによって当事者性や自分の「封じられた声」を取り戻すことによって開かれる可能性や積み重ねられる社会へのプラスの影響も無視してはいけない。

僕がこの分野にこだわって深く掘り下げて研究しているのは、自分も予備軍だと思うし、日本でも社会に根深く残る問題だと思うから。心に蓋をして言葉を封じてしまっている一人として、自分を含めた苦しんでいる人たちに、このオープンダイアローグのような居場所を一つでも多く創り出せるように頑張りたい。

愛宕神社例大祭で花車の運転に挑戦

地元の愛宕神社の例大祭に、今年は花車の運転手として参加。

花車といってもいろいろあるんだろうけど、今回運転したのほ、軽トラの荷台に板を被せて、中は座敷で ご祝儀を頂いた方の名前と金額を書いて、外面に貼って地域中低速で走り周ってみんなに見てもらう。

この改造車の後ろにはこんな入り口があって、中は座敷になっている。

これが意外と難しい。周りでは人が道を縦横無尽に歩いてるし、後ろでは人が書道の姿勢でものを書いてるし、ご祝儀を後ろの人と受け渡ししてる場合もるし、道順がわからない中、慣れないマニュアル車で超低速で走らなきゃいけない。

普段は車に乗るのも稀で、最近、やっと自分の車を持ったくらいなんだけど、そんなのはお構いなしに前日に頼まれた。それも、まだ人生で3回くらいしか運転したことがなかったマニュアル車。。

道中、かなり急な坂を駆け上がるコースもある。さすがに坂道発進が出来ずにヘルプしてもらいもした。

基本的に、お祭りって、激重な神輿を担ぐとかどでかい登りを打ち立てるとか、常に危険と隣り合わせ。以前、その辺りの非効率さや非合理性の中に、むしろ現代人への癒しが含まれているという仮説を立ててみたこともあった。

bokudeki.me/autonomy/volunteer/101282

そんな中、車の運転の経験が浅い人間にこんな特異な環境で運転を任せるなんて無茶だとは思ったけど、「出来る人」「経験がある人」が担うだけでは人材は育たないというのはある。「出来ない人」を出来るようにするには多少のリスクは犯させないといけない。

地元のお祭りの会がそこまで考えて花車の運転を任せてくれたのかは分からないけど、地域内、コミュニティ内で「出来ないからこそ出来るようになるように任せる」っていう取り組みがあると人も育ち、地域、コミュニティーも活性化するものだと思う。

今回は100件を超えるご祝儀を頂き、前日の夜宮の売り上げと合わせて3桁万円を達成したとか。こういったお祭りを継続するにはこういった地域のサポーターも必要。

宗教の儀式というよりは、地域コミュニティーの復興という意味で、地域のお祭りは地域の財産なんだと思う。長く受け継がれてきた歴史や伝統は活かさない手はない。

「イスラム国」「つまようじ動画」「僕たちのソーシャルメディアでの行動」の共通点について

最近のイスラム国による邦人人質事件。今日の朝に二人目の人質の後藤さんが殺害されたとされる画像が公開された。こんなんじゃいけないと思うけど、今回は自分のことで精一杯でほとんど関心を向けられなかった。正直、悲しいという感情もどうにかしなきゃという行動もそれほど起きなかった。

その上で感じるのが、このイスラム国のニュースと最近の19歳の少年による「つまようじ動画」には関連があるということ。それは、必要以上に自分(達)を大きく見せようと、汚い手を使って巧みにメディアの話題を集めようとすること。残虐度はそれぞれの地域の治安度に比例してる気がする。

もちろん、どちらのニュースも報道されるに値するはずだけど、大手メディアでそれ一色になってしまうと、確実に他に報道されるべきことが置き去りになってしまう。そして、多かれ少なかれ、これはfacebookやYouTubeなどのソーシャルメディアの世界でも僕たち自身がやってしまっていることかもしれない。

それは、投稿の内容より、「見せ方」がうまい人が話題をさらう傾向があること。内容が無くても見せ方がうまい人は人気者になれる世界。注目や脚光を浴びたいと思う人が必要以上に出しゃばろうとすれば、本当に注目されるべき人や発言が埋もれてしまうことになる。

もちろん、ソーシャルメディアは、ゆるいつながりを持てたり何かを始めたいと思った時にきっかけをつかむのに素晴らしい機会になる。ソーシャルメディアは使い方によって良い影響をになることもあれば悪い影響を及ぼすこともある。要は、僕たちがそれを何の為に使うかの「動機」の問題ということ。

イスラム国は最悪の動機で手段を選ばずにあからさまにあらゆるメディアの注目を集めようとしている。つまようじ動画の少年も、法には触れないのかもだけど、同じようなベクトルの動機を持っていたと思う。僕らのソーシャルメディア上での行動も、些細なことかもしれないけど、同じような動機によるものがある可能性がある。

「等身大の自分(達)」を見せるより、テクニックで自分(達)を大きく見せようとする傾向を放っておくと、その手段はどんどん過激に、手段を選ばないことになるかもしれない。どうして人は必要以上に自分を大きく見せたがるのか?そうすることによってどういう影響が及ぶのか?を理解し僕たち一人一人が行動を変えて行く必要があると思う。

さらに、発信する側だけじゃなくて、情報を消費する側の立場でも気をつけるべきことがある。例えば、今この瞬間でも世界的にイスラム国の動向が必要以上に騒がれてしまっていること。それは半分彼らの狙い通りの可能性が高い。僕たちは必要以上に反応せずに、やるべきことは外さず着実にこなしていくべきだ。

集団的自衛権③:「戦争しない政府」を選んでいけるという自信と権利意識

今回の集団的自衛権の一部容認の閣議決定で「戦争が起こる」と言う抗議の声が多く聞かれる。確かに、現体制が長く続くのであればその可能性は高い。そうでなくても、何をやらかすか分からない政権が他に台頭しきても同じ。

その上で、「戦争が起こる」と言うのは、自分たちがこれからも「信用出来ない政権を選び続ける」という宣言でしかないと思う。それは、無力感を通りこして自分たちの無能さを積極的に示しているに過ぎないのではないだろうか?

元々、憲法9条改正を目指す安部政権が衆参両院で圧勝した時点で、日本は平和とは言えないのではないか。本当の平和とは、例えば、戦争が出来る状況にあろうが、戦争という手段を選択しないことのはず。だとすれば、憲法9条があるだけで平和だとするのには無理がある。

何らかの危険が差し迫った時に戦争をするかどうかを判断するのは誰か?もちろん、時の政府が決断する。憲法解釈の範囲内で。

だけど、その前段階で、実は僕たち国民次第で、その時々の政府を選ぶことが出来るということを忘れてはならない。「選択に値する政治家や政党がない」というなら、選択肢を自分たちで作る必要がある。戦争をしない(戦争を未然に防ぐための十分な行動が出来る)政治勢力の選択肢を。

僕たち国民には、選挙という手段でその選択をする権利がある。もちろん、日本の有権者数は1億人以上いて、自分ひとりが投票したからと言って大きな変化は起こりえない。だけど、横のつながりの国民に働きかけて影響力を高めることは出来る。

「権利」があるのは前提条件で、あと必要なのはこの「自信」だけ。権利があるのに絶望的な未来を予見してしまうのは、間違いなく自信がない証拠。自民党をあれだけ圧勝させてしまったことで現政府を変えられる自信は僕はないけど、少なくとも、未来の政府をよりよいものにしていけるという微かな自信はある。

すでに享受している「権利」とともに、この「自信」を自他ともに増幅させていきたい。

―連載終わり―

舛添さんは圧勝ではなかった

都知事選が終わって既に舛添新都知事が初都庁も果たして今更感があるけど、メモがてら書いておこうと思う。

選挙結果を受けて、マスコミ各社が「舛添圧勝」という記事を出していて、多くの人がそういう認識でいるかもしれない。現に、facebook などのタイムラインではとても悲観的なコメントが流れていた。

でも、今回の結果を受けて、必ずしも悲観的になる必要はあるのだろうか?僕も舛添さんは支持してなかったし、舛添さんがコケて短命に終わる可能性は大きく、短期的には損失が大きく悲観的になるのは分かる。だけど、今回の選挙結果を別の視点から見てみると、次の都知事選では限りなく希望が見えてくる。

今回の選挙結果で「舛添圧勝」と言えるのは、あくまで投票数を分母にした時の話。今回の投票率はたったの46.14%で都民の半数以上は投票していない。で、舛添さんの得票数は200万ちょっと。有権者数約1000万人のたったの2割にしか支持をされていないということ。本来、たった2割の支持で首長に選出されることはあってはならないこと。

こう見ると、舛添氏が特に強かった訳でも、組織票の影響力が欠陥モノを言った訳でもないことが分かる。今回の結果に問題があるとすれば、最も根本的な問題は、人々の行動と働きかけが足りなかっただけだ。投票率にも問題があるし、人々の間の議論や審議を通しての民意の形成への努力が目に見えて足りなかった。根本の問題はそこにある。組織票の影響力なんて、今回は恐らく全有権者数の1割にも満たない。そんな超マイナーな要素が今回の選挙の決定打になった訳ではない。一番の原因は自分たちが弱すぎたということ。

ただ、逆に考えると、次の都知事選では、有権者数の2割程度で勝機があるということ。有権者の半数以上が投票してない訳だから、伸び代は十分にある。自分たちが強くなれば状況を十分にひっくり返すことが出来る…それが今回の選挙結果で明らかにされたと言ってもいい。

こうやってこれまでの選挙結果を視点を変えてみて見ると、自民党の強さも、公明党などの組織票の影響力も、そんなに言うほど決定打になった訳ではないことが分かる。ほとんどの場合で決定打になってきたのは、ただ単に僕たちの行動不足。それ以外に理由を付けるのは、ほとんどの場合でスケープゴートでしかない。

投票数を分母にするか、全有権者数を分母にするかで、こんなにも結果に対するイメージが変わる。今回の選挙結果ごときで悲観的になって立ち止まってしまうのはもったいない!視点を変えてみれば、次の選挙で十分勝機を感じることが出来る。それも、意外とハードルは低い!

そう認識して、今日から次の選挙に向けた行動をみんなで起こしていきたい。もちろん、自分から率先して。