「当事者性」カテゴリーアーカイブ

今回の都知事選で「脱原発」に最も近いのは、実は家入かずま候補ではないだろうか?

今回の都知事選で一人だけ、若い候補が出馬している。
それが僕と同じ年で、「東京をぼくらの街に」をキャッチフレーズに選挙活動を続ける「家入かずま」さん。

家入一真(いえいりかずま)東京都知事選立候補者

22歳でレンタルサーバー(ロリポップ)やブログサービス(JUGEM )などのWEBサービスを展開するpaperboy&co.を起業し、ジャスダック市場最年少で上場した経歴を持つ。

また、理想の経営(3)家入一真さんのLivertyのようなケースでも書いたように、常識に囚われない発想力で、無駄になっていたり眠っている労働力を総動員して新たな価値を生み出しまくる取り組みも行っている。

今回の都知事選の出馬のきっかけも、ツイッターで1000RTされたら出馬すると約束したことというユニークさ。
選挙戦も、インターネットを駆使した他の候補とたちとは一線を画す形で進めている。
例えば、街頭演説ではなく「街頭ツイキャス」で行い、政策も「みんなの政策」と題してツイッターで都民の意見を募り、選挙資金もクラウドファンディングで集めている。

家入さんのネット選挙戦略が面白い:1時間のネット中継を延べ6,000人が閲覧!

ギャグみたいな理由での出馬だし、彼の言動や行動は特に年配の人には受け入れられ難いだろう。
実際に仮に彼が都知事になったら東京は大きなリスクを負うことになるかもしれない。

だけど、他のどの候補に任せても、「東京が十分に変わりきれない」という意味で、確実にリスクはある。

どうせリスクがあるなら、個人的には家入さんに任せてみたいなと思う。
彼のユーモアのセンスは、東京の若者を活気づけるに違いない。
まぁ、僕には投票権がないから行く末を見守るしか出来ないんだけど。

今回の都知事選、脱原発を争点にしようとしている候補も多いけど、個人的に、「脱原発」と言わなくても、結局、一番脱原発に近いのは家入候補のような気がしてる。

脱原発を実現させる最も根本的なものとは何だろうか?
再生可能エネルギーに置き換えるだけじゃ全く不十分で、省エネなどの技術でカバーするのも限界が見えてしまう。
反対運動だけで変わるもんでもないし、我慢したり行動を制限したりして節電するのも根本的な手段とは言えない。

最も根本となるのは、人を活かし、知恵と工夫と労力でエネルギー需要を抑えること。

実は、都知事選の候補者の中でそれを最もやろうとしてるのは、家入一真さんだと思う。
彼が根本的にやろうとしてるのは、人を活かすこと。個々の能力や可能性の稼働率を上げること。

これこそが根本であり、ここから無駄な電力消費を無くすことや、省エネの技術革新、人や自然に優しい代替エネルギーへの置き換えや反対運動にいたるまで、あらゆることにつながることになるはず。

家入さんがこれまでやってきた、若者の誰もが居場所を持ち眠っている能力や労働力を引き出して価値を生み出しまくれる取り組みを、更にパワーアップさせていくのが、実は一番脱原発に近づけるのではと本気で考えてる。

ウェブサービスを利用した個人間取引の未来図

この日経ビジネスオンラインの記事、とても面白かった。

「個人の逆襲」が始まる
business.nikkeibp.co.jp/article/report/20131025/255060/

来年4月に消費税が5%から8%になり、近い将来10%まで上がる可能性が高く、その先も十分ありえる。こういった消費増税のニュースは暗いニュースと受け取ることが多いと思う。

でも、この記事では、ポジティブな未来を予言している。それは、個人間の取引が活発になり、企業に依存しない、「個人が主役」の文化が到来するかもしれないというもの。

個人間取引には基本的には消費税が発生しない。確かに、消費税が上がればそれだけ企業を通さない個人間取引が増えるのは間違いない。それはとても面白い未来図かも。

個人間取引促進の先駆的ウェブサービスとして、アメリカでcraigslistがかなりの影響力を持っていて、アメリカ時代にかなりお世話になった。craigslistは、今や日本を含む世界規模でシェアを広げているけど、あくまで取引が行われるのは同じ地域にいる人の間。様々な情報がウェブ掲示板に載せられ、かなり活発に売買なりパートナーシップなりが成立している。

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ヨーロッパでも同様のウェブ広告掲示板「Gumtree」があり、日本でも「ジモティー」という日本版craigslistが立ち 上がっていたことに最近気づいた。実は、アメリカにいる間、個人的にも、ジモティーのようなウェブサービスを日本でやりたいと思ってたんだけど、先を越されてしまった。
top-a53645af8485e38a1b7c184cadd1931c.jpeg Gumtree1

そして今個人的に注目してる個人間取引促進ウェブサービスが、シリコンバレー発のベンチャー「Nextdoor」。
nextdoor

「近所」という超ローカルの限定された範囲のSNSで、モノやサービス、オススメなどのシェアの他に、コミュニティの強化、安全性の維持なども狙っている。

このウェブサービスのユニークな点は、オンラインでアカウント登録後に、わざわざ郵送でパスワードを物理的に送る仕組み。完全ではないけど、アカウントと本人の同一性が確保される。こういった信頼性の高さから、なんとあのニューヨーク市がこのNextdoorとパートナーシップを結んで、公的なサービスとして運用を行っている。

その背景には、近所のコミュニティレベルの活性化までとても行政の手が回らないという現状があるのだと思う。それは、多くの地域にも言える話のはずで、オンラインを利用したこうした取り組みは有効と思う。ただ、日本でやって成功するとはもちろん限らない。

確かに、オンライン上で個人間の取引を活発にするのに、信頼性を確保するのは大変だけど、「よりローカル」と「アカウントの信頼性の高さ」によって、オンラインの中ではかつてない信頼性の高さを実現してると思う。パスワードを郵送で受け取ったり、その分、面倒な作業が付きまとうけど、これからのウェブサービスの一つの流れとして、「ローカル」と「アカウントの信頼性」はキーワードになってくると思う。

とにかく、企業を解さず、個人間で、直接、モノやサービスが取引されたりシェアされたりするようになるとどんな未来になるのかを想像すると、ワクワクしてくる。

「趣向」ではなく、「場所(徒歩圏内など)」をベースに音楽グループを組んでみる

Music Video Disaster

最近は地元のイベントなど全然追えてなくてほとんど参加出来ずにいるんだけど、一つ、地元で目標が出来た。

12/28に平塚駅南口のRAINで近所の人とライブをやることになったんだけど、いろいろ構想が膨らんでしまって、徒歩圏内の寄せ集めで世代を超えて構成されるバンドを結成し、持ち寄り曲をやれたらなと。個人的な構想では、40代、30代、20代の大学生、高校生、中学生、小学生が参加するプロジェクト。

これを一過性のものにしないで、「万田」という徒歩圏内でもっと輪を広げて、公民館とかで超ローカルな音楽フェスティバルとかやったりしたら面白そうだなと思った。プロフェッショナルである必要は全くない。

以前、この記事に書いたような、大きなマンション内のコモンホールのような場所で、住人バンドによる開催される定期演奏会のようなイメージかな。

「コミュニティ」としての集合住宅を考える
bokudeki.me/planning/entertainment/40832

普通は、バンドとか音楽グループを組むとしたら、地域性より趣向が合う人同士で集まろうとするだろうけど、超ローカルな範囲で人材を駆使して役割を分担して作り上げる音楽もいいと思う。音楽のクオリティより、寄せ集めの特技や才能、時間を駆使して生み出される無数の音楽が、いかに街を楽しくするのか。

意外と才能のあるご近所さんはいるはずだし、みんなで持ち寄れば、機材も練習場所も確保出来ると思う。何より、徒歩で集まれればちょっとした時間に打ち合わせなり練習なりが出来る。音楽に限らずだけど、近所の人ならそういった「遊んでいるリソース」や「隙間時間」を有効利用して何か出来る可能性がある。

そういった時間とリソースを駆使して近所の人たちが一体となって何かを共に作り上げれたりすると面白そう。そうして作り上げられたものを披露する場は市外でも県外でも日本の外でも構わない。 そんなの出来たら素敵だな〜と思う。

映画「ゼロ・ダーク・サーティ(Zero Dark Thirty)」を観て迎える9・11

今年も9・11を迎えました。

あの同時多発テロの日からもう12年も経つんですね。航空機がハイジャックされ、世界貿易センタービルに突っ込む衝撃的な映像を、今も覚えています。みなさんは、今年の9・11をどう迎えましたか?

この時期に合わせてか、レンタルビデオ屋に「ゼロ・ダーク・サーティ(Zero Dark Thirty)」が並ぶようになった。

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この映画は、何も考えずに観れば、犯人を追うサスペンス的な戦争アクション映画。僕にはどうしてもリアルなこととは思えなかったんだけど、この映画で描かれたことは実際に起こっていたことで、僕たちも原因と結果を知っている。そう、この映画は、9.11からオサマ・ビンラディンの殺害までの一部始終を描いたノンフィクション映画。

この手のアメリカの映画は、大抵、アメリカの正義を軸に作られるものだけど、この映画は違った。制作側が何かを暗示している訳でも、特定のメッセージを発している訳でもない。実際に起こっていたことをありのまま表現しているに過ぎない。それでも、その実際に起こっていたありのままの事実自体に、強烈な暗示や関連性が込められていた。

僕たちが一般的に知っている事実は、9・11の同時多発テロ事件が起こり、アフガニスタンやイラクなどでの対テロ戦争を通して、10年近く経った2011年5月2日に、同時多発テロの首謀者と言われたウサマ・ビンラディンが殺害されたこと。誰が、いつ、どこで、どのように?というのはあまり知られていない。

僕も良く知らなかった。断片的な情報から、アメリカほどの諜報力や軍事力があるのに10年近くも探し出せないのは、ビンラディンと実は裏でつながっていて、殺害するのを躊躇っているのではないか?という陰謀論を半分本気で信じていた。しかし、実際は、テロリストたちの忠誠心と組織力が想像以上に強く、アメリカのCIAも当初はいいようにもてあそばれていた。

そんな中、ビンラディンの居場所を突き止め、殺害まで導いた立役者がいた。その人は、何と、高卒で何の実績もなくCIAに入り、一つ目のヤマとしてこの難題に取り組んだ、この映画の主人公のマヤという女性だった。

普通のアメリカ映画であれば、(アメリカの正義的に)これだけの功績を残した人物を「正義のヒーロー」として描くだろう。しかし、この映画に出てくるマヤは、人間味の感じられないどこまでも冷徹で無機質な人物。仲間を自爆テロで亡くし復讐に燃えている一面もあったが、普通では到底理解出来ないほどに、「ビンラディン殺害」に執着と意地を見せる。一歩間違えれば、世界を敵にまわしてしまいかねないほどに…

そして、彼女の目的である「ビンラディン殺害」が達成された時に何が起こったか?高卒でありながら、これだけの功績を残したことで、パキスタンからの移動にはマヤだけのために専用ジェット機が用意された。しかし、その機内で初めて、気づいたのだと思う。彼女は、その先のストーリーを全く考えていなかったということを。

「ビンラディン殺害」が完全に目的になってしまっていた。マヤはその目的を達成するためのロボットだった。その目的を達成することによる影響や、その後の世界の可能性など、他のことは眼中になかった。「ビンラディン殺害」はあくまで手段の一つに過ぎず、目的はもっと先にあるべきだったにも関わらず。

この映画を観て、どちらか一方だけに同情や肩入れをすることはとても出来ないと思った。アメリカは、テロリストたちを一方的に「悪」に仕立て上げ、自分たちを「正義」として際立たせようとしているけど、ありのままの事実からは、「悪」対「悪」とも取れる構図が浮かんでくる。憎悪が憎悪を呼び、安全保障が未だに脅かされ続けている今という時代がそれを物語っている。

狙った訳じゃないんですが、数日前に2晩連続でこの映画を観たこともあり、例年とは少し違う感覚で9・11を迎えました。人間が発する情報にはどうしてもバイアスが発生します。そして、その情報に対する個々の解釈の仕方次第で認識が大きく変わり、人生が180度変わることもあります。

人生の軌道を確実なものとするには、ありのままの事実を自らが探求し、常にフェアな解釈をしていける忍耐力が要求されるのだと感じました。それは、この映画の題材に限らず、僕らを取り巻くあらゆる場面で要求される能力のはずです。そのことを心に刻んで、また明日から頑張っていこうと思います。

「市民が勝手に助けてくれる自治体」を目指す

 Misawa Air Base Personnel and Family Members help Tsunami-Battered Japanese City

住民が「勝手に」貢献してくれて、黒字を続けているローカル線がある。それが千葉の小湊鐵道。
地元のオヤジ達が集まって「勝手連」という連合会を結成し、グループ間で小湊鐵道への貢献度を「勝手に」競っているらしい。

住民が勝手に助けてくれる会社
business.nikkeibp.co.jp/article/report/20130809/252147/

勝手連がやっていることは、駅舎の清掃や鐵道周辺の草刈りにとどまらない。
無人駅で喫茶店を開いたり、「勝手に」駅舎にイルミネーションを設置したりして、集客にも貢献している。
何よりもすごいのは、そういった「勝手な」貢献活動で、「お前の所もすごいけど、俺の所の方がもっとすごいぞ」って自慢し合っているらしい。笑

この子どもっぽさに、何ともいえない人間味とか温かさを感じる。
この無邪気なボランティア競争が、そのまま地域の活性化につながっている。

このローカル線の「勝手連」のようなものが平塚にもあったらなとずっと思ってた。
「市民が勝手に助けてくれる自治体」を目指すというような。

平塚市民プレスを立ち上げた動機も、市民が「勝手に」平塚に貢献できる場を持ちたかったから。
市民それぞれが、平塚に貢献する記事を書いて、その貢献度を「勝手に」競うというような…
「お前の記事もすごいけど、おれの記事のがもっとすごいぞ!」って言い合って市民ジャーナリズムの質のボトムアップを図る。

これを市民ジャーナリズムにとどめず、平塚市のあらゆるサービスに適用してみる。
市民が「勝手に」街を彩り、楽しくして、行政や企業の手が届かないところのサービスを「勝手に」担う。
市民ごと、グループごとに、「おれはこんなことしたぜ!」、「何だって!?それじゃおれたちはこれをやるよ!」というように、平塚市への貢献度を「勝手に」競い合う。

結果的に、平塚市は大幅に行政コストを削減でき、既存サービスの有効利用と戦略的な税収アップも見込めるかもしれない。

小湊鐵道と同様、縮小していく中で、自治体が黒字を続けていけるかどうかは、行政がどうあれ、「勝手に」貢献度を競い、互いに認め合える市民がどれだけいるかにかかっているのかもしれない。

今一度、「国民主権」について考えてみたい

Protestas Estudiantiles

僕たちの住む日本は、「国民主権」の国家。国民に主権があるということは、僕たち国民が国家における最高権力者だということ。

政治家や政党が権力の主体だと思っているとしたら、それは根本的な誤り。あくまで国民に主権があり、政治家や政党は、国民の代わりに間接的に政治を運営しているに過ぎない。政治家や政党よりも僕たち国民の方が絶対的な権力を握っているということを肝に銘じなければならない。

「国民主権」である以上、その国の政治によるあらゆる結果は、100%国民に責任があることになる。どんなに腐敗していても、それはその国の国民が招いた結果ということになる。政治家や政党が勝手にやらかした」と非難しても、結局、彼らを選んだのは、紛れもなく国民。むしろ、日本のような民主国家では、そういう一方的な非難は、そのまま自分たちの無能さを曝け出すだけ。

どんなに言い訳をしようが、自分だけが責任逃れをすることは出来ない。「自分はその議員(政党)には投票してない」とか「自分はあの政策には賛成してなかった」と言ってみたところで、責任逃れは残念ながら出来ない。他人が動かないなら、自分がその分動かなければならない。自分が動かないなら、すべての政治的な結果を受け入れなければならない。

「国民主権」の国家では、他人に期待することはリスクになる。自らが主体的に行動することが、そのままリスク回避になる。救世主が現れるのを期待するのは自由。だけど、現れなかった時の責任はきっちり取る必要がある。国民主権の中でも「間接民主制」の日本では、国民は、自分の推す政治家や政党を育て、仲間を増やし、選挙で勝たせることが、政治の権力行使のメジャーな手段となる。

「民主主義」というかけがえの無い自由を得ることと引き換えに、僕たちは、実はとんでもない責任を背負っていることになる。民主主義は、機能させれば最高の結果に行きつくことが出来る。その代わりに、機能させられなければ、独裁主義よりひどい結果になり得る。

「政治」自体は常に中立であり、そこにいる人々によって、善くも悪くも変わる。その因果が自分に起因し、責任の一端が自分にもあることを正しく認識しない限り、人々の行動は変わらないし、結果的に政治も変わらない。この「国民主権」の原理を、今一度確認しておきたい。

当事者意識を高める物語にこそ価値がある:映画「善き人」の例から

善き人(英題:GOOD)」という映画を観た。ナチスドイツ時代に、ヒトラーに小説を気に入られたことから予期せぬ人生を歩む大学教授の物語。



どこのレビューも評価は良くないみたいだし、僕も見終わった後の後味は良くなかった。
主人公は「善き人」という訳じゃなくて、むしろ全く好感が持てなかった。

でも、良く考えると、何故、自分が映画に「好感が持てる主人公」を求めるのか分からなくなった。


この映画の主人公は、親孝行な訳ではなく、家庭不和で愛人と再婚し、何となくナチスに懐疑的だけど生活の為に形だけのつもりで入党してしまい、ユダヤ人の親友を助けられず廃人同然に追いやってしまう。そして、クライマックスでは、自分が加担してきたことがどういうことだったのかに気づき、「取り返しのつかなさ」MAXの状態で終わる。



「何て情けない主人公なんだ」と主人公に好感が持てずに酷評するのは簡単。
だけど、僕たち日本人が置かれている状況に応用してみると、僕たちはこの主人公より立派なことをしているだろうか?



本当に国が憲法改正し、なし崩し的に国家が民衆を支配するような方向に向かい出したら、僕はこの映画の主人公より立派なことが出来るかは自信がない。きれいごとをを言うのは簡単だけど、本当にそうなったら、生活のためには悪にも加担することを正当化するようになってしまうかもしれない。



この映画は、他人事のように「自分」を切り離して観る以上、価値は生まれないと思った。
「自分」も当事者の一人であり、リアルタイムで別の物語上を歩んでいることを認識した時に、自分を突き動かすほどの価値を生むのかもしれない。

僕たちは、気が遠くなるほどの大問題をいくつもかかえ、心のどこかで救世主を求めていると思う。だけど、それは、きっと「自分はやりたくない」という姿勢の裏返しでしかない。

例えば、「ナチス」といえば、昔、奇跡体験アンビリバボーでやっていた「ナチスvs奇術」という物語で、ナチスドイツ軍を翻弄したジャスパー・マスケリンのマジシャンの話をブログで紹介した。この人がいなかったら、連合軍は勝てていたか分からないと言われるほどの人物らしい。

まさに、ジャスパーは当時の救世主であり、正義感と才能に満ちあふれた典型的なヒーローだ。映画や小説などの物語りを創る上で、最高の題材になるだろう。

それに対し、映画「善き人」の主人公は、これまで書いてきた通り、普通に情けなく気まずい人間。この主人公の役を勤めていたのは結構成功している俳優みたいだったけど、恐らく、リスクのある役だったのだろう。

だけど、この対極的な物語で、どちらが観た人に本当の意味で影響を与えられるだろうか?個人的には、ヒーローものの物語は、エンターテインメントとしては最高だけど、結局、ストーリーと自分とを切り離させ、観るものを傍観者にさせ、当事者性を奪ってしまうと思う。

それに対し、映画「善き人」の主人公の情けなさは、観た人に「自分が立ち上がらなきゃ」って思わせるには十分だったかもしれない。恐らく、僕の感じた後味の悪さは、「結局は自分が立ち上がらなければならない」ということから目を反らせなくなったから。

救世主が現れるのを待つだけじゃ不十分。
かといって、自分が救世主になる必要は必ずしもない。
誰もが最低限持つ必要があるのは、「当事者意識」。

物語にはエンターテインメント性は大事かもしれない。だけど、映画「善き人」のように、救世主の出現願望を打ち砕き、観る人に当事者としての意識を植え付けることで、より普遍的で永続的な価値を生む物語もありえる。

そういう物語は大抵嫌われる。観る人に居心地を悪くさせ、気まずくさせ、後味を悪くさせるから。でも、それは、観た人が少なからず「当事者」としての意識を持っていた証拠なのだと思う。観る者に、当事者意識を植え付けること以上に影響を与えることは恐らくない。

物語の価値とは、そういうところまで加味して観るべきではないかと、映画「善き人」を観て感じた。

乗り遅れても途中参加しやすい雰囲気作り。ステージの上と下を気軽に行き来できるような環境づくり。

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20代前半の頃、僕はバリバリのバンドマンだった。ニュースクール・ハードコアという極めてアンダーグラウンドなシーンで活動してた。音楽的にはとても好きだったけど、ステージの上と下との間に何か超えがたい壁があるのはどうしても好きになれなかった。

この映像(www.youtube.com/watch?v=Phb14q_5wcM …)のように、ステージを埋め尽くすほどの観客がステージ上に上がって来たり、観客席では腕ぶん回したり回し蹴りしたりしてダンスをする観客もいて、観客にもかなりの主体性はあったんだけど、それでもステージの上と下で超え難い壁を感じた。

僕は演奏側としてステージの上でライブを楽しむ権利があったけど、ほとんどはステージの下でライブを見ていた。ステージ上に憧れを抱いてコネで登りつめ、ステージ下の観客たちを見下す人たちがたまらなく嫌いだったから。

そんな態度だったから、僕たちのバンドはその音楽シーンでは孤立していった。結果的に、憧れのバンドがやっているレーベルからのスプリットCDの話も無くなっちゃったんだけど、それで良かったと思ってる。

そう、その音楽シーンは、”Unity”ってみんなで叫んで団結を呼びかけていたんだけど、結局は身内で固めてますます排他的になり、階級制を強めて行っている感じだった。それじゃ結局は一過性のものに過ぎず、持続可能ではないんだよね。

その頃から、ステージ上とか下とか演奏者とか観客とかの間にある壁に違和感を感じていたんだと思う。そういう感覚が残っていたからか、ポートランドに住んでみたときに、そういう壁がない環境がいかに街を楽しくするのかを身をもって知ることが出来た。

僕の目指すまちづくりは、ステージ上とか下とか、演奏者とか観客とか、運営側とか来場者とか、そういう垣根が薄く、互いに自由に行き来できるようなもの。恐らく、従来の方法でまちづくりを目指している人には、目指すのがむしろ難しいゴールかもしれない。

乗り遅れないように頑張れば頑張るほど、乗り遅れた人を焦らせることになる。ステージの上に上り詰め安住することに執着すると、それだけステージ上と下の間に溝を作ることになる。そうなると、何でも面白くなくなる。

乗り遅れても途中参加しやすい雰囲気作りが大事だし、ステージの上と下を気軽に行き来できるような環境づくりも大事だと思う。そうなれば、想定外なほど街が面白くなってるはず。

統合失調症(7)活力を奪うだけの治療

現状では、統合失調症などの精神障がいの回復は、患者の活力を奪うことによって行われることがまだ一般的だと思う。
薬漬けにしたり、物理的・精神的に拘束したりして、当事者性も言葉も行動範囲もモチベーションも、根こそぎ奪う。
患者を「無力化」させることによって問題解決をはかろうとする。

「“囲”学」(囲うの囲)、「“管”護」(管理の管)、「“服”祉」(服従の服)…

これは、ソーシャルワーカーの向谷地さんが、大学卒業後精神科の現場に足を踏み入れたときに感じたという3つのキーワード。
本来は、「医学」「看護」「福祉」のはずですが、いつしか「囲い込んで、管理して、服従する」という全く別のものに置き換わってしまっている。

べてるの家のメールマガジン 「ホップステップだうん!」の第006号に載っていた中尾利佳さんの精神病の施設での体験は酷かった。
まるで刑務所だった。

薬を飲む時も、入浴の時も、看護師の監視下で集団で一斉に、又は並んで行われるらしい。
施設利用者は、施設から一日も早く出られるように、調子の良い姿を演じる。

中尾さんは言います。
「たとえ、どんなに私が人間的に優れていて、東大に合格できるような学力なんかがあったとしても、精神病者になると、少なくとも十数年前に私が受けた医療現場では、医師や看護師、その他専門家という上に立つスタッフと、見下される暗愚な患者、という構図に追いやられてしまうのです」

もちろん、この頃に比べると精神医療の現場も変わってきているとは思う。
だけど、根本的には、やはり当事者の方たちの活力を奪うことで解決しようとしているところがある。

それは、世界の精神科病床の2割を日本が抱えるという現状に現れている。

次回へ続く…

理想の経営(2)バンドマン社長・河野 章宏さん率いる「残響」

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「理想の経営」というちょっとした連載で、いくつか例をあげながら、僕の勝手な経営の理想像を説明しています。

①オレゴン州ポートランドのフードカート:小規模でもみんなが経営者になることにより、力を発揮出来る人が増える。
②バンドマン社長・河野 章宏さんの「残響」:社員が成長することによって伸びる。
③家入一真さんのLiverty:眠っている労働力を総動員してマイクロ事業を立ち上げまくり、利益をメンバーで山分けする。

今回は、②のバンドマン社長・河野 章宏さん率いる「残響」の例。

河野さんは、2004年立ち上げた自主レーベル「残響レコード」を、10万円の資金からのスタートにも関わらず、2010年の決算ではグループ年商5億を売り上げるまでになったそうです。

6年ほどでここまで売り上げを伸ばせたのなら、かなり成功していると言えるでしょう。

 

「右肩上がり」や「前年比」は眼中になし

この残響の経営方針として特徴的なのは、「右肩上がり」や「前年比」が眼中にないということ。

どうして「前年比」を超えないといけないんですか?という日経ビジネスオンラインの記事を読んで、「なるほど」と思いました。

普通の会社は、売上など利益面での「前年比超え」を経営目標に置くものですよね。
どんな手を使ってもいいなら、前年比を超える手段はいくらでもあると思うんです。
社員や関係者に無理をさせたり、悪いことをさせたりすれば…

例えば、河野さんは以下のように例示しています。

アーティストの肉体、精神的な疲弊、現場のスタッフのやる気に目をつぶれば、「数千万円の売上を積み増せ?任せとけよ!」です。いくらでもできます。

具体的には、ライブハウス規模での興行を10本よけいに打てば、それだけで1000万円の売上が立つ。利益も500万円近く出ます。これを何組かの所属アーティストに、やらせればいいだけの話です。

皆さんご存じの「年度末になぜか大量のCDリリース」はその実例です。業界の「決算書」を見栄えよくするための都合で、アーティストが犠牲になっているのです。

でも、こういうように従業員の待遇より、会社の「前年比超え」という方針を重視するなら、いつかはその右肩上がりの結果は破たんすることになるでしょう。

「前年比」を目標にしなくても、従業員の待遇を良くし、成長をサポートすることによって、長い目で見て着実に売り上げを伸ばしていけるということは、この残響が結果で示せていると思います。

 

給料は「自己申告制」

残響が従業員に提供する待遇やサポートでユニークな点が、給料は「自己申告制」ということ。(詳しくは、「前年比」は、経営者にとって魔法の言葉なんです。を参照)

河野さんは言います。

給料を上げたければ、「今年はこれだけのことをやろうと思っていて、これだけ稼ぐのに予算がこれだけ要ります。儲けがこの額になりますから、その中からこれだけ自分の給料をください」というのが基本です。

仕事内容や給料は社員自身が決めるんです。僕から押しつけられるノルマを待っている社員は1人もいません。

一人ひとりがアイデアを振り絞って挑戦し続ければ、業績は自ずと前年を超える。数字の上での「前年比超え」に血道を上げる必要なんて、ありません。

これなら、従業員は、会社に対する帰属意識も高まるし、モチベーションを維持しやすく、更には経営の面でも主体性を持てやすいと思います。

このように、従業員の主体性やモチベーションを高め、成長を促すことによって、おのずと売り上げが伸びていくことを狙う経営方針もあり得ると思います。

それは、この「残響」が証明していると思うし、これからも証明し続けていけるのか、残響の動向を見守っていきたいです。