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セレンディピティ(serendipity)という概念に限りない希望を感じる理由

今まで「セレンディピティ(serendipity)」という言葉を聞いたことがなかったけど、今日になって突然複数回目にして驚いた。

今日の名字の言でも出てきた。
www.seikyoonline.jp/news/myoji/2014/06/1213266_4490.html

Wikipediaによると

セレンディピティ(英: serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見する「能力」を指す。平たく言えば、ふとした偶然をきっかけにひらめきを得、幸運をつかみ取る能力のことである。

とある。

個人的にこの概念はすぐに興味が湧いた。以前、茂木健一郎さんが行っていた「偶有性」に通じるような気がしたのもあって。

偶有性とは、僕の解釈では、想定外のことが起こる「余地」があることで、それが「脅威」にもなりえるけど、逆に「理想以上」の結果になることもあるというようなこと。多様性を認めない排他的なグループや思想はこの偶有性の余地がなく、良くて予定調和の結果しか導けない。

また、目的を達成するためだけに行動することは、例え目的が達成されたとしてもそれ以上の結果は望めない。だけど、その過程で寄り道をしながら新たな気づきを得て方向性を柔軟に変えていける人は、目的達成以上の結果を導きだせる可能性があるということ。

参考
「偶有性」の余地をポジティブに捉える

「偶有性」はあくまで「現象」や「性質」のことを指すのだと思うけど、「セレンディピティ」はその偶有性をコントロールしてポジティブな効果を得る人間の「能力」なんだと思う。とても素晴らしい能力だと思うし、この能力があれば無駄なことなんてなくなっていくのかもしれない。

そして、この概念を「社会」と「その構成員としての人間」という関係に応用してみると、セレンティビリティは「ソーシャルキャピタル」というような概念に置き換え可能かもしれない。どちらにしても、「予定調和」とは対局にある考え方であることは間違いない。

僕がこの「セレンディピティ」という概念に希望を感じるのは、どこまで可能性が拡がるのか全く見当がつかないから。思い描けるあらゆる理想よりもベターな結果がもしかしたらあり得るかもしれない。「理想」は必ずしもベストではないということ。

「偶有性」というものを脅威としか捉えない風潮はあるけど、これを打ち破り人々がセレンディピティを身につけて行動するようになったときに何が起こるのかを僕は見てみたい。

善いことをするのに、ものすごくハードルの高い日本

オレゴンにいた時は、どうしてあんなに生き生きとしてられるんだろうってずっと不思議に思ってたけど、何となくその訳が分かってきた。

日本に限らずだとは思うけど、日本って、善いことをするのに、ものすごくハードルの高い国なんだ。
自分にはどうしようも出来ない空気が充満していて、僕はそういった空気にモチベーションを奪われてしまう。
もちろん、そんなに弱い自分なのがまずは問題なんだけど、それを自己責任で済ませることはとてもできないと思う。

まだまだ不十分だとは思うけど、その空気がどういうものなのかをまとめてみた。

Confederate Monument - E frieze and Minerva - Arlington National Cemetery - 2011

■善いことをするのに、犠牲的精神を求められる

僕はこの空気がたまらなく嫌だし、僕を含めた多くの日本人の無気力感や無関心を助長していると思う。
元々善いことをするんだから、自分たちの利益も追求したっていいじゃないか。

NPOでさえ、未だに、従業員が給料をもらうことに疑問を持つ人がいる。
お金や名誉など、何も見返りを求めずにNPOのような事業を興せと言ったって、明らかに無理があるでしょ。
仮にあなたが出来ても、他の大部分の人には出来ない。

善いことをしていても、けっこうな確立で偽善のレッテルを貼られる。
どんなに善いことをしていても、個人的な利益が見え隠れしただけで、人は離れて行く。
何で、善いことをするのに、そんなにハードルを上げるのか、僕には理解出来ない。

そもそも、犠牲的精神は、美しく見えるだけで、ベストでは全くない。
まず、自分が犠牲になる時点でマイナスになる。
自分も他者も十分に利益が得られてこそ、ベストの結果になる。

その為には、「個人的な利益」も外しちゃいけない。
それをも持たせないように圧力をかける「空気」は、社会にものすごく有害になる。

■どんなに善いことをしている人でも、気に入らなければ潰される

日本は、多くの人が認める通り、「出る杭は打たれる」社会。
どんなに善いことをしていても、「出る杭」である限り、打たれるリスクがある。

驚くのは、同じ日本人が世界的に活躍してても、日本国内で気に入らなければ、タブーにしてでも潰そうとするところ。
自爆もいいところだけど、自爆してでも自分の気分を晴らそうとするパワーはものすごい。
それは、物理的な暴力ではなくて、それ以上に恐ろしい「空気」という暴力で起こされる。

フロイトはかつてこう言ったらしい。

「無知は、知の怠慢ではなく、知ることを拒絶する膨大なエネルギーの結果」

僕も例外無く、その空気の一部になっているときは、この場合の膨大なエネルギーの一部かもしれない。
ただ、そういう空気を放置していると、生きたまま心が窒息死してしまうかもしれないという危機感は感じてる。

■一度上り詰めたとしても、一瞬で地に落ちる

「建設は死闘、破壊は一瞬」
まさにその通りだと思う。

ただ、自業自得の部分があったとしても、外的な圧力であっという間に壊滅させられる例は少なくない。
そういう時は、決まって、ポジティブな側面は封印され、徹底的に全否定される。

いろんなことに尽力して、尊敬され、有名になった人でも、空気が風となって吹けば、裏を返したように批判を浴び、叩きのめされて名声は地に落ちることがある。
最近のみのもんたさんの騒動がいい例だと思う。

BLOGOSで掲載されたこの記事を読んだ時、僕も鳥肌が立った。

みのもんた問題にみる日本の特殊性
blogos.com/article/72546/

そして、とどめは、こういう空気で抑圧されている人がいても、日本ではリスクを冒してまで声を上げる人が少ないこと。
大部分の人が、事態が好転するまで様子見をする。

僕も、正直、こんな状況じゃ怖くて怖くて、善いことをする気にも声を上げる気にもなれない。
だから、僕も例外無くその破壊的な空気に迎合してしまっている一人と言える。
そもそも、善いことをするのにリスクが付きまとうのってどうなのか…

はっきり言って、オレゴンに住んでいた時は、こんな空気を感じたことは無かった。

みんなそれぞれ勝手なことをやっていて、いちいち人のやってることを気にしない。
キリスト教の国とはいえ、日本のように善いことをするのに犠牲的精神を求められることもなかった。
アメリカの大統領でさえ、市民の身勝手な空気の圧力によって潰されることなく、任期を全うしているでしょ。

アメリカは見習うべき国とはとても言えないけど、そういう空気のあるなしでこうも違うのかと痛感した。
これから日本に住み続けるなら、避けては通れない障害なのは間違いない。

この空気に逆らうのは自殺行為かもしれない。
だけど、自分はこの空気に飲まれず、この魔物のような空気で苦しんでいる人たちのために行動していきたい。

 

【衆院選2012連載】 バックナンバー

2012年12月の総選挙が決まった日の翌日から衆院選の連載を続けています。ブログは2003年から続けており、アメリカ留学中にエッセー執筆力はかなり鍛えられた(専門科目だけならGPAは3.75でした)ので、今回の連載にも自分なりに自信を持っています。執筆しながらも様々なことを勉強しました。

筆者自身、明確な支持政党があるだけに偏った見方が出てくることは否めませんが、出来る限りフェアな視点で、有権者のみなさまそれぞれがベストな選択をして、日本をみんなが望む方向へ変えていけるように、という願いを込めて連載を進めています。

投票日まで残り1週間を切っていますが、この連載が、みなさんのベストな投票へ近づけるための助けになることを願っています。

 

衆院選2012連載 バックナンバー(随時更新)

(37)来年の参院選に向け、政治へのフォローの質を高めよう!

(36)新政権はもう動き始めている

(35)政治家も国民も「リセット癖」から抜け出せてない

(34)一部で騒がれている「不正選挙疑惑」についてモノ申す

(33)争点が違った?「反対」だけでは受け入れられなかった?

(32)選挙後でも参加する手段は沢山ある!

(31)これからが本当のスタート!

(30)「投票に行ってきました」投票行動をSNSにアップしよう!

(29)「投票に行こう!」有名人や識者たちの声

(28)「参加して育てる育政」が機能している数少ないケース:公明党

(27)【地方分権】隠れた争点「地域主権型道州制」について

(26)【憲法改正】積極的な非武装平和主義:コスタリカの例

(25)【憲法改正】日本の憲法が国民を縛るものに変わる!?

(24)「単独政権or連立政権」という視点

(23)【消費税】賛成-反対と言っても、中身はそれぞれ違う

(22)春香クリスティーンさんの政治に対する姿勢と行動から学ぼう!

(21)「ネット選挙」に関する橋下徹さんの体を張った問題提起について

(20)全国紙からツイッターまで、総選挙お役立ちページ

(19)各政党の公式情報へのリンクまとめ

(18)公示日を迎え、公職選挙法が適用されています

(17)各党で温度差のある原発政策、実現度をどう見極める?

(16) 身の回りの身近な政治から始めよう

(15)都合の悪いことも伝える

(14)腐敗した政治から自分を切り離すということ

(13)「期待する」だけでは機能しない

(12)地方から国会へつながる「ネットワーク性」という財産

(11)【TPP】自由貿易が国を崩壊させた例(ハイチの例から)

(10)【TPP】参加・不参加それぞれの場合の成功シナリオ

(9)投票にあたり重視するポイントは?

(8)【エネルギー】原発を巡る議論の打開策は「人力エネルギー」にあり!?

(7)【エネルギー】原発推進派の方へ伝えたいこと

(6)【エネルギー】脱原発派の方へ伝えたいこと

(5)総選挙がオリンピックみたいだったら…

(4)選挙結果を潔く受け入れ、新政権を建設的にサポートしよう

(3)「政治的」と「政治」の違い

(2)どれくらい重要な選挙なの?

(1)どのような姿勢で投票にのぞむ?

実は驚くほど自分に近い?「仏」の姿

Buddha

「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ 教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ」日蓮

これは今月の座談会で扱った御書の一節なんだけど、僕はこの御書が好きだ。仏法を学び始めてから最も衝撃を受けた御書。何しろ、「仏」とか、そういう人間を超越してそうな存在に対するイメージが劇的に変わった。

みなさんは、「仏」と聞いてどんなイメージを抱くだろうか?僕は、昔、「仏」って人間を超越していて、「苦しみ」とか「悩み」とかとは無縁な別世界に住む存在だと思っていた。だけど、仏法の世界の「仏」像は全く違う。嫌悪感を感じるほど違うと思う。

成仏した(仏に成った)とされる不軽菩薩(釈尊の過去世の姿)は、僕らと同じこの地球に生まれ、人々を導いたとされる。「仏」といえば、自分を棚上げして安全なところで人々に説教をしたイメージもあったけど、実際は、人々から暴言を浴びせられ、杖で打たれ、瓦や石を投げられて迫害されていた。

不軽菩薩のすごいところは、それだけ迫害されても人と関わることをやめなかったこと。どんなに意地悪されて暴力をふるわれても、人々に備わる「仏の生命」を礼拝してまわり続けた。その実践の中で、やがて六根清浄(生命の浄化)の功徳を得て成仏したとされる。

不軽菩薩は、釈尊(お釈迦様・ブッダ)の過去世の姿。ということは、釈尊は果てしなく昔から実は成仏していたということ。それなのに、この地球にまた生まれ変わり、人間として泥臭く活動をした。「仏」とは、自ら願ってそうするものなんだと。

釈尊がこの世に出現した根本の目的は、「人の振る舞い」を示すことにあったとされる。人々は、「あなたには仏の生命がある」と言われても簡単には信じない。「おれにそんな可能性があるわけないだろ!」とキレて暴力を振るうくらいだから…

釈尊は、最初から、説教しただけで人々が悟りの境地に至れるとは考えていなかったのだと思う。だから、自分を安全で別次元の存在に棚上げせず、わざわざ乱れた世相の世界に人間として願って生まれ、「人としての模範を示す」ことによって人々を導こうとした。

意地悪されたり暴力を振るわれ迫害の連続でも人間臭く、泥臭く人と関わっていき、次の世でも同じように泥臭く人々を導いていくことを願う…これが「仏」像だとしたら、みなさんはどう思いますか?僕には、考え方が180度変わるほど衝撃的なものでした。

「仏」の世界に、自分以外の「環境」は関係ない。苦悩に満ちた地獄のような環境においても、変わらず仏の境涯で人々を導いていけるのがむしろ仏だということ。「そんなことはしたくない」と思えるくらい、実は、僕たちにも現実的に出来そうなことではないかな?

「仏」っていうのは、僕らの想像よりずっとずっと自分に近い存在なんだと思う。自分自身が実は…っていうくらい。そう思えるだけで、人生が大きく変わってくるのかもしれない。

日本のママチャリ文化を活かすために必要なこと

ママチャリ日本のママチャリ文化っていうものを議論してみたい。日本の自転車利用者が多いのは、間違いなくママチャリのおかげだと思う。高齢者の移動手段や健康維持という意味でも、大活躍だ。だけど、そのママチャリの文化がネックとなって、サイクリストのための環境が一行に良くならないのでは?と思う。

日本では、自転車利用者数の割には、道路でのサイクリストの存在感は弱い。それは、ママチャリ文化というのが原因の一つだと思う。ママチャリだと、自転車への愛着が弱く、車道を走るような設計にはなっていない。

ママチャリは1万円ほどで買える経済的な移動手段だけど、それがネックになって、日本では、自転車を移動のための消耗品としてしか見なしていない。その為、自転車への愛着が弱く、サイクリストとしてのプライドも育たない。結果的に、道路における存在感が弱く、市民権がいつまでたっても得られない。

アメリカのポートランドでは、日本ほど自転車利用者はいないけど、サイクリストの道路における存在感は極めて高い。環境整備も進み、ドライバーが認知したことによる事故の軽減などが起こっている。

それは、自転車に対する愛着の問題でもあると思った。当然、ポートランドではママチャリは売っておらず、自転車屋に行っても3万円以下のものを見つけるのは難しかった。それだけで、彼らにとっては、自転車は消耗品にはならない理由となっている。

ポートランドのサイクリストは、日本人ほど自転車に実用性を求めないけど、実用性の他に、スポーツとカジュアル性をバランスよく求め、自転車を利用している。その為、自分の自転車への愛着や、サイクリストとしてのプライドが高い。

ママチャリのもう一つの問題点は、今の日本の道路事情では、とても車道を走れないということ。ママチャリは、恐らく、歩道を走ることを前提に設計されている。そのため、どんなにママチャリ利用者がいても、車道での存在感は発揮されない。

僕が思うに、ママチャリ文化が本当に活きてくるのは、サイクリストの環境が整備されてからだと思う。歩道と分離して、ママチャリくらいのスピードで安全に走れる環境が出来ていることが前提。

そういった環境が整備されるまでは、ママチャリ文化を続けるのはマイナス影響でしかないと思う。全員とは言わないけど、ママチャリから脱却して、スポーツ自転車に乗って車道を堂々と走行する人を増やす必要がある。道路上で市民権を得るには、車道で存在感を示すしかない。

一度、道路上でサイクリストの存在感が認められれば、時間はかかるかもしれないけど、ドライバーの認識することにより、事故は減っていく。それに、車道のスペースを再配分する議論に発展せずにはいられなくなる。そうしてサイクリストの権利と道路環境がされたときに、はじめて、ママチャリの文化が活きてくるのだと思う。

マイケル・ムーアはアメリカに必要な厄介者

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「マイケル・ムーア in アホでマヌケなアメリカ大統領選」という放題の映画を見た。マイケル・ムーアの監督した映画だと思ったら違った。保守層が圧倒的なユタ州でマイケル・ムーアが講演を行った時のことを追った自主制作気味なドキュメンタリー映画だった。チープな映像だけどとても面白かった。

個人的には、マイケル・ムーアは好きで彼の映画は良く観る。もちろん、物事をフェアに描いているとは必ずしも思わないけど、あれだけコミュニティを二分するような議論を醸し出す影響力を持てるのはすごい。

マイケル・ムーアは、厄介者に見えて、人々の内にある争いの種を、小さいうちに現し、積む事にもつながっていると思う。ユタで、圧倒的な保守勢力の中で押さえつけられていた声を引き出し、手遅れにならないうちに衝突させたのだと思う。

実は、マイケル・ムーアを間近に見たことがある。僕がオレゴンにいた時、彼は、ポートランドのオキュパイ運動の応援に駆けつけたことがあった。だから好きになったって訳じゃないけど、彼のような活動にも興味があるんだよね。あの手この手で、いろんな場所で議論を醸し出させるってこと。

「アホでマヌケなアメリカ大統領選」で、マイケル・ムーアの前に保守系支持の有名人が講演を行ったのだけど、会場は保守系の牙城で、リベラル支持の人たちが意見を言える雰囲気じゃなかった。激しいブーイングの中で声を上げようとした大学の教授たちは、本当に勇気があると思った。

なんか、リベラルが正義みたいな書き方だけど、そういう視点じゃなくて、四面楚歌で、明らかに正常な精神状態でスピーチを行うことを妨害しようとされている中で、言葉にならなくても、声を上げようとするだけでも、もの凄く勇敢なことなんだといいたい。

僕だったら、小便ちびってしまいそうな程、恐ろしい場だった。でも、恐らく、他人事ではなく、今いる場所でも、同じように、言葉にならなくても、勇気を振り絞って声を上げようとしなくてはならない場面があるはずなんだよね…そう思うと、マイケル・ムーアってすごいと思うんだよね。憧れやしないけど、すごい部分はありのまま認めないといけないと思う。

これが、マイケル・ムーアがポートランドに来た時の模様。そう、あれはちょうどハロウィーンの日だったな。「マイケル・ムーアが来た!」bokudeki.me/autonomy/volun …

マイケル・ムーアは、このブログで書いたような「社会に必要な厄介者」なんだと思う。 「彼女は争いを呼ぶだけの厄介者なのか?」 | Best I Can -僕に出来ること- bit.ly/Mf2aIa 

リハビリが必要なのは、むしろ僕たち健常者の方なのかもしれない

先日、NHKのNHKプロフェッショナル仕事の流儀という番組で【これが介護の最前線!200万人以上の認知症笑顔を守る秘密とは?覚悟の男、涙の訳】という回を見た。介護福祉士である和田行男さんの現場での奮闘が描かれていて、とても考えさせられた。topicsnow.blog72.fc2.com/blog-entry-564…

この和田行男さん、番組の中で本気で悔し涙を流していた。彼の悔し涙は、映画「セヴァンの地球のなおし方」で、セヴァン・スズキが流していたものと似ていた。理想が先行しているけど現実が追いつかない時に、悔し涙って出るのだと思う。ただ、そういう時って、成長のスピードも早いはず。

和田行男さんは、運営するグループホームで、認知症のお年寄りの尊厳を守るために、夜間以外は鍵をかけないなど、行動を出来るだけ制限させないようにしている。これは、認知症のお年寄りに大しては大きなリスクになる。この点、本当に微妙な問題で、ジレンマだと思う。

認知症の方の介護と言えば、まだ「閉じ込め」をはじめとする「行動の制限」が主流だと思う。障がい者つながりで、精神病の方への対応はもっと酷い。「行動の制限」に加えて「薬付け」にされ、施設に入院すると、「モノ」のように管理されることがあるらしい。

べてるの家のメールマガジン 「ホップステップだうん!」の第006号に載っていた中尾利佳さんの精神病の施設での体験は酷かった。まるで刑務所だった。薬を飲む時も、入浴の時も、看護師の監視下で集団で一斉に、又は並んで行われるらしい。一日も早く出られるように、調子の良い姿を演じる。

中尾利佳さん「たとえ、どんなに私が人間的に優れていて、東大に合格できるような学力なんかがあったとしても、精神病者になると、少なくとも十数年前に私が受けた医療現場では、医師や看護師、その他専門家という上に立つスタッフと、見下される暗愚な患者、という構図に追いやられてしまうのです」

病院でも職場でもどこでもそうだけど、人間を「管理対象」として見ることは、人間の本来の可能性の否定につながると思う。他人を管理(支配)しようとしても、結果的に思い通りにはならない。抵抗されるか、奴隷のようにしたとしても、社会は住みにくくなる一方になる。

障がい者の方たちの自立を阻んでいるのは、周りの健常者たちの「余計な行動」なのかもしれない。「過剰に介入する」のもそうだし、偏見や先入観から「関わらない」というのも余計な行動だと思う。あくまで、患者の「当事者性」を尊重し温かく見守ることが大事。

リハビリが必要なのは、むしろ僕たち健常者の方なのかもしれない。

進化のパターンは「弱肉強食」だけではない

これ破壊的な誤用だ…「そもそも、「弱肉強食」という言葉自体、ダーウィンの原典にある「Straggle for existence」を訳した言葉で、この訳は、「生存のための努力」と訳しても良かったはずだ」 ダーウィンはナマケモノを嫌わないbusiness.nikkeibp.co.jp/article/life/2…

ダーウィンの進化論にあるという「Struggle for existence」を「弱肉強食」と解釈したってのは、ほんととんでもない御用だと思う。だって、「弱肉強食」って、生き残るための一つの方法に過ぎないから。全く逆の「多様性の保護」や「協調」だって、生き残るための手段になり得る。

この「弱肉強食」という解釈のままに、この進化論が経済の世界でも当てはめて使われているとすれば、もの凄く破壊的な御用になるんじゃないか。確かに、「弱肉強食」は経済界でも進化の手段になり得るけど、それが最適とは限らない。「場合による」としか言えないはず。

逆に、「弱肉強食」がサバイバルを不可能にする場合だってある。他を淘汰して自分たちだけが生存出来たとしても、自然や宇宙の環境次第では、彼らは生き残れない。もしかしたら、その場合でも、他の種は生き残れたかもしれないし、その種の仲介で、その「強者たち」も生き残れたかもしれない。

「弱肉強食」という考え方が悪いとも、道徳的でないとも言わない。だけど、その考え方は万能ではなく、その考えが生きるケースは限られているということ。ダーウィンは、進化のパターンについて、間違いなくもっと多様な考えを持っていた。その多様なパターンは、経済界にも通じると思う。

『「進化」や「発展」は「弱肉強食」でしか成し得ない』、「脱落者は自己責任で淘汰されるしかない」、と言う人は、その考えがどこから来ているのか、思想源を確かめてみた方がいい。もし、それがこのダーウィンの進化論からくるとしたら、とんでもない誤解をしているかもしれない。

エネルギー危機の打開策は、人間の可能性の開発にしかない

Jogging on a bright November morning

「経済成長は多くの電力がないと成し得ない」としか思えない人は、想像力が足りないと思う。経済成長も例外なく、電力なんかより、人間の可能性を生かすことが一番の処方箋になる。

僕たち人間が最も可能性を発揮出来るのは、何らかのサバイバルをしているときだと思う。資源やエネルギーが限られてる時こそ、僕たちは想像力を働かせて工夫するでしょ。飢え死にしそうになったら必死にどうにかなるように行動するでしょう。

再生可能なもので資源やエネルギーを代替えすれば解決なんてことは決してない。持続可能な経済成長とは、間違いなく、資源やエネルギーに依存しないものだ。例えば、価値の結晶であるアート。人間の想像力は、一枚の紙切れを何億円もの価値に変えてしまえる。

資源やエネルギーなどを確保しようと思えば確保出来てしまう今の状況が、実はものすごい曲者だと思う。それは、例えば世界の裏側の貧しい地域から分捕ったものかもしれないし、自然や未来の世代を犠牲にして得るものなのかもしれない。自分たちの可能性を信じられない愚かさでしかない。

電気があればあるで、何でも電気を使って楽できるようなものを作るでしょ。もはや、電気を使わずにもっとすごいものを作ろうなんて遠回りなことは考えなくなってしまう。

原発を巡る日本のエネルギー問題は、もはやモラルの問題だと思う。一部の人たちを危険にあわせても、未来の世代に美しい地球を残せなくても、今、僕たちが楽したいと思うのか?楽するってのは、自分の可能性を発揮するのに消極的なのと一緒だと思う。

その上で、僕たちが原発反対ありきというのも良くない。僕ら自身が、原発がなくても持ちこたえられるという証拠を示さないと。それを成し遂げるだけの知恵や能力は既にある。ただ眠っているだけ。それを引き出していく決意や覚悟を固め、具体的な計画として提示していけばいい。

ドイツのシェーナウでの電力革命から学べること

「変革は、弱いところ、小さいところ、遠いところから」という本が好きなのだけど、ドイツのシェーナウで起こったことも、まさにこの本のメッセージのままだと思った。

シェーナウでの電力革命の事例ですごいと思ったこと

①自分たちを超えて意識を拡大させ、リスクを恐れず大きな権力に立ち向かったこと。チェルノブイリ原発事故をきっかけに、ドイツの小さな山間の町で、無関心な町民がほとんどで独占電力会社の牙城が堅固な中、たった10人の親たちが立ち上がり、行動し続けた。

②反対するだけでなく、政治的にも状況を引っくり返すような行動をしたこと。彼らでも最初は反対活動をした。でもそれだけでなく、節電、情報提供、提案をしつつ、それでも不十分だと悟ると、電力会社を立ち上げ、住民投票の結果で自分たちが市との契約を結ぶまでに。

③妥協せずにビジネスを成り立たせていること。彼らが扱う電力は、再生可能エネルギーとコージェネ発電のみ。原発や環境に悪い化石燃料で少しでも発電している電力会社やそれと結びついている会社とは関わらない。それでも、ドイツ全土に10万もの顧客がいる。

④地域を二分するような政治論争を市民の力で巻き起こしたこと。日本の郵政選挙でも国家が二分されたけど、あれは国民が機転ではなかった。シェーナウの事例は、市民が巻き起こしたことにすごさがある。リスクをもろともせず、ライオンのように勇敢な行動だった。

⑤個人的な仕事より、政治活動を優先したこと。このムーブメントの中心人物ウルズラ・スラーデックさんの旦那さんは医者だったが、患者が減ってでも、時には住民投票など政治活動を優先し行動した。経済活動などより政治活動を優先するべき局面は必ずあるということ。

⑥もっと先にある偉大な目標の為の「手段」として成し遂げたということ。彼らにとって、自分たちの町で電力革命を起こすことはステップに過ぎなかった。最終的なゴールはもっと先にあった。だからこそ、短期間で偉大なことを成し遂げられたのだと思う。

 

環境ジャーナリストの小澤祥司さんによれば、ドイツでは、シェーナウ電力などの再生可能エネルギーからの電力のみを提供する電力会社の電力料金は、ドイツの電力会社全体の平均の電力料金より安いらしい。

原子力や火力などで発電する施設を電力会社が持つとすると、施設の維持管理で莫大なコストがかかり、結局それが何らかの形で電力料金や税金に上乗せされて、国民の負担になる。そういう施設を持たずに小刻みに電力を売買するだけだから、結果的に電力を安く提供出来る。

シェーナウ電力のやってることは、自分たちで発電して電力を売るというよりは、家庭規模も含めた無数の顧客から、再生可能エネルギーとして発電した電気を買い取り、適正な値段で売るということだと思う。従来の独占電力会社だけに発電させビジネスをさせるのではなく、無数の市民にも起業家として発電させ儲けられる自由を促進している。

結果的に、ドイツ全土で、太陽光だけで、瞬間的に最大で原発20基分の電力を発電してしまうほどになっている。

ドイツのシェーナウでの電力革命は、「素人」だったから成し得たのだと思う。専門家には到底出来なかったこと。「いい加減な常識」に囚われた人には、行動が起こせない。「良く知らない」からこそ切り込める。突破口を開ける。

ガンジーは言った。「立派な運動はいずれも、無関心・嘲笑・非難・抑圧・尊敬という五つの段階を経るものである」と。ドイツのシェーナウでの電力革命は、この5つの段階をしっかりと経ていると思う。