「小さな気づき」カテゴリーアーカイブ

西坂自然さんの当事者研究「評価の変動相場制」

That was supposed to be going up, wasn't it?
べてるの家のメールマガジン 「ホップステップだうん!(ow.ly/bSc9L )」は、有料だけど、とても貴重なメルマガだ。精神病を抱える当事者の人たちが主体となって、当事者研究をし、記者となって活躍している。「人間の科学」がとてもユニークな視点で研究されている。

べてるの家のメールマガジン 「ホップステップだうん!」の第005号に載っていた西坂自然さんの当事者研究「評価の変動相場制」は素晴らしい研究だと思った。
人が他人の評価を気にして一喜一憂する心理を、とても明確に、ユーモアを交えて書かれていた。

かなり大部分だけど、ここに引用してみよう。

私の中では、周囲の人から「優しい」「明るい」などのプラスの評価があると、「自分が存在してもいい」(「生きていてもいい」)という意味合いのポイントが加算されます。反対に評価が下がると「やっぱり自分は存在してはダメな人間だったか」という、それまで慣れ親しんできた「納得」の状態になります。そしてこの評価体質において一番厄介な状況は、「評価されてない状態」です。それは「もしかして嫌われているかもしれない。次の一挙一動によって評価が下がり、自分の存在が否定されるんじゃないか」という、“お客さん満員御礼”の状態だからです。

私の苦手な評価の舞台は、信頼関係の薄い人たちが集まる場所や、誰からもは っきりと○×の評価を与えられない状況です。その状況の裏には「いったい自 分の評価が上がっているか、下がっているか判断がつかない。その見えない評 価額を下げないためにはずっと現在の評価を下げない努力を継続しつづけなく てはならない」という予期不安が働き続けるからだと思います。 評価が目に見えない場合、「空回りの努力を不断に続けなくてはならない」 「もし気を抜けば“必要ない”と判断されて見捨てられるに違いない」という、 いつも「脅かされた状態」が続くのです。

でも実はその「評価の舞台」というのがくせもので、それは私の積み重ねてきた苦労のなかでいつの間にか私の中に作られた架空の舞台なのです。私とっては非常にリアリティーがあって、本当に存在しているようにしか思えないけれど、実は架空の劇場の架空の舞台なのです。

そして私は舞台に「上がらされた」と感じているけれど、実は自らすすんで(もしくは無意識のうちに身体が勝手に)上がっているのです。舞台上で私につけられる○や×の評価は明確に目に見えないので、評価を勝ち取る戦いはとても繊細で、苦しいものになります。例えていえば、営業職で1件お客さんをとったときにハッキリと言葉でほめられ、成績表に1ポイントつくけれど、それ以外の日常生活や通常の業務内においては、一体評価が上がっているのか、下がっているのか目に見えないのと同じです。

私の感覚では、自分自身の相場は、数分単位で評価額が変動していて、いつも乱高下しているように感じています。だから実は相場が思い切り下がったとき(周囲の全員から「こいつはどうしようもないやつだ」と×をつけられたとき)の方が、安心感があります。それ以上評価額が下がる心配に怯えなくて済むからです。

西坂自然さんの「評価の変動相場制」とは、自分で勝手に「評価の舞台」に上がり、他人の評価次第で自分が「生きていていいか」を判断してしまうこと。
何者かに舞台に上げられているのではなく、自ら上がっている。

そして、その舞台も実は自らが作り上げた架空のもの。
「評価されていない状態」が心地よく(むしろ気楽で)、逆に一度評価されてしまうと、評価が下落する恐怖に怯えるようになってしまう。

基本的に、周りからの評価がどう変動するかは読めない。
他人の評価に振り回されて「勝手に」不安になったり、恐怖を感じたりする.
だけど、実質的な周りからの評価に関わらず、自分を評価しているのは結局、西坂さん本人。
周りはむしろ気にも留めていないかもしれないし、本来は、自らが評価の舞台に上がりにいく必要もない。

ここまで極端でなくても誰でもこういう心理は持っているはず。もちろん僕にも。
過去の自分に照らし合わせてみれば、とても分かる部分がある。

でも、西坂さんみたいに、自分を掘り下げて研究してみたことはなかった。
精神科の先生でさえ、こんなに明確に精神病の患者に何が起こっているかを捉えきれない。
そういった意味でも、精神病を抱えているとはいえ、西坂さんは優れた研究者だと思う。

対話の能力は、質問の質による

対立する意見を持つ二人が議論をしていて、最初はお互いアイデアに対して批判をしていたのに、いつの間にかお互いに人格を否定し合うような険悪なムードになることがあると思う。もはや、アイデアに対してというより、相手が気に食わないから、相手の言うことを全部否定するようになるとか。

こういう背景を考えると、対話の能力って、質問の質によるんだと思う。

質問の質を高めるには、相手の言うことを良く聴き、理解しなければならない。その分、相手への興味を持続させなければならない。質の良い質問は、相手の良いところを引き出す。結果的に、対話の成果が上がる。

相手が気に入らないからとかいう理由で相手の言っていることを都合良く歪め、いいところを出させなくさせるような人は、対話が不得意だということだと思う。ディベートは勝敗がすべてかもしれないけど、対話はウィンウィンを目指すものだと思う。

だから、対話の得意な人って、相手のいいところを引き出すような質問が出来るというのが絶対条件なのだと思う。

他人のちっちゃなブレークスルーを後押しすること

人前で話すのが極端に苦手な人に、人前で話す機会を作り、責任を持って指導し準備を手伝い、後押しすること。どんなに人前で話すのが苦手な人でも、一度だけでも「うまく話せた」という感覚を体感すれば、うまくなる軌道に乗れるものだと思う。

その一度目の体験を、どのように後押ししてあげるかなんだと思う。これは他人事のようで、その人が苦手意識を克服して人前で話せるようになっていくという影響力は、自分にとっても無視出来ないものになっていく可能性は十分にある。

そんなことまで考えながら、今日は2時間以上もかけて近所の友達の発表の準備を手伝った。想像以上にうまく発表してくれて、とても嬉しかったし、何より本人が大分自信をつけたんじゃないかと思う。こういうちっちゃなブレークスルーでも、その人に及ぼす影響力は計り知れない。

僕は、このサポートを犠牲的精神でした訳ではない。しっかり、自分の利益も計算している。正確に言うと、その人にブレークスルーさせないことによる自分への悪影響を計算している。その人が自律した成長の軌道に乗れれば、社会への悪影響から好影響へと2倍の効果を発揮することになる。

だから、他人のちっちゃなブレークスルーを後押しすることは、その人のためであり、自分のためでもあるということ。

「プライド」についての関連ツイート

僕たちは、多かれ少なかれ、他人から分析されることに抵抗感を持つものだと思う。僕にもある。抵抗感が強い人は、プライドが高い割に自信が無い人なのかもしれない。 

「プライド」って「見栄」にも十分なり得るな。プライドを持つことがプラスに働く場合ってどんなときだろう? 

プライドについてちょっと調べてみたところ、プライドを持つことが「百害あって一利無し」と表現しているサイトを見つけました。 ow.ly/4XZ1E 

ポートランドには「あんたホームレスになるような人じゃないだろ」って人が、普通にホームレスになって、ストリートでお金を乞う。それも堂々と後ろめたさの微塵もなく。彼らからはプライドなんてほとんど感じられないんだけど、それだけに余裕さえ感じられるんだよね。 

確かに、「プライドを持て」って言われることがある。そういう人は、どういう意図でそう言うのだろうか?それに、プライドを持とうとする動機って一体何なのだろうか? 

プライドを持つ動機は、自分を鼓舞するため?だとしたら、どんな手段で? 

「プライドが高いのに自信がない人が引きこもりになりやすい」ということを聞いたことがある。プライドが高いばかりに、下手すると、人前に出れなくなってしまうこともあると思う。 

現代の日本人のプライドの高さは、ポートランドのフードカート(屋台)の文化にも現れているかも。ポートランドにはフードカートがもう600以上あるらしいけど、日本食専門店たった一件。屋台ごときでは社会的に認められないと思っているところがあるかも。 

プライドの高さっていうのは、社会の中で認められる難易度を高めるものなのかもしれない。プライドの高さに比例して自信がなければ、社会の中で居づらくなる。プライドを捨てて社会で認められる難易度を低めれば、ぎすぎすしたものが緩和されて、より多くの人が居場所を見つけられる社会になると思う。 

アドバイスをするのに、「プライドを持て」と言うのと、「プライドを捨てろ」というのと、いろんな視点から考えてみたら、どちらが相手のためになるのだろうか。「場合による」という結論になると思うけど… 

「地球市民」とか「人間」としてのプライドだったら大いに持つべきだと思うな。スポーツマンシップのような潔い公正さを持てない状態で、プライドを持ってしまうことに、問題があるような気がする。 

「プライドを持つ」ということが価値的で建設的に生きるのは、人間として普遍的な権利を主張する場合だけだと思う。例えば、社会的に不利な立場にあるグループが人間の尊厳としてプライドを持つ場合で、あるグループが他のグループより優れていることを示すためのプライドではない。 

自分だけが優れているという優越感ではなく、自分を含めた人類全体の、あるいは生き物全体の可能性や尊厳に誇りを持てるということ。

「神」とは「働き」に過ぎない

確かに、キリスト教と仏法では、得に「神」というものに対して大きく教えが違う。キリスト教ではキリスト自体が絶対的な神となっているけど、仏法でいう神(諸天善人)とは「働き」に過ぎず、仏の生命を宿している僕たち人間(仏)が、神というその働きを興す立場にある。

「神」より、僕ら自身である「仏」の方がずっと尊く、「仏が神をコントロール出来る立場」という考え方。人生は神によって宿命付けられているわけではなく、人間が神という働きを興して宿命を転換することが出来るということ。本当のところは分からないけど、後者の方が自分に得だと思うからそう信じている。

昔は「宗教=絶対的な神がいる」と思ってたけど、仏法を実践し始めてから、そういう固定観念があることにすごく違和感を感じるようになった。その固定観念を打破しない限り、仏法は本当の意味で理解出来ないと思う。 

イエス•キリストは、仏法でいう「菩薩」や「仏」の生命境涯を体現した人で、歴史上で最も偉大な人物であることは間違いないと思う。だけど、彼を「絶対的な神」としてしまうところに、教えとしてのキリスト教の危うさがある。恐らく、それはキリストの意思ではない。 

「神」に対する捉え方で、生き方が大きく変わると思う。「絶対的な神」がいる前提でいれば、生身の人間ではコントロール出来ない「神」や「運命」などの超えられない壁が立ちはだかることになる。その点、仏法には、(働きとしての)「神」や「宿命」をも人間次第で動かせたり変えたり出来ると捉える。 

宗教嫌いな人が多いのは、特定の「絶対的な神」を信じるのが嫌だからなんじゃないかな。僕もそれだったら嫌だ。でも、宗教はそれだけじゃない。 

人によって別々の「絶対的な神」がいれば、そりゃ争いの種になることは間違いない。現実、そうなってる。だけど、帰依する対象を、「無限の可能性を秘めた尊極の生命」とすれば、争いは生まれないはず。

子どもが感受性を豊かにするために必要なこと

個人的には、子どもより大人の方が感受性が豊かっていうのは信じられない。もちろん、場合によるだろうけど、子どもはビーチの波打ち際とか、街中の噴水のアトラクションで何時間でも遊べるもんだと思う。大人だと何とも思わないことに何かを感じる力はあると思う。逆もあり得るけど。 

自然が織りなすパターンは多様すぎて、人工的にはとても作りだせない。ビーチの波打ち際での波のパターンも、一つとして同じパターンはない。大人になると、波は波と同じもんだと認識してしまうけど、子どもは一つ一つの波に違うものを感じ取る。だから、何時間経っても飽きない。 

今時の子どもが感受性が乏しいのは、実は僕も感じている。そして、それは実は大人達のせいなんじゃないかとも思ったりもする。 

自然環境が少なくなったことで、子ども達の感受性が台無しになっているというのはあると思う。そういった意味では、僕は好運だったと思う。 

うちの実家の近所に高麗山という小高い丘があるんだけど、そのてっぺんから平塚の市街地が見渡せる。僕が小さい頃は、実家の辺りはほとんどが田んぼだった。田んぼで土を踏んでよく遊んだ。イナゴもザリガニもいた。だけど、今はほとんどがコンクリートで「町」になってしまった。 

一つ言えることは、大人たちの感受性の欠如のために、自然環境がことごとく破壊されていったということ。それが子どもたちに与えた影響は計り知れない。 

子どもたちにとって自然環境がすべてでは決してないけど、とても重要であることは間違いない。 

僕ら大人たちが、今の子どもや未来の世代に十分持続可能な地球環境を残してあげられるか。そのために、どれだけ真剣に悩み、行動しているか、なんだと思う。子どもたちは、そういう大人たちの真剣さとか姿勢のようなものを感じ取る能力には長けていると思う。 

子どもたちの目が死んでいるのは、大人たちが本気になりきれていないからなのかもしれない。大人たちが、リスクを覚悟で体を張って行動するようになれば、子どもたちの目に輝きが戻るのかも。

手の内をあえて見せることによって進化する

手の内をあえて見せることによって進化する人もいる。 

専売特許とかにせずに、自分たちのアイデアや技術をあえて公開し、会議の内容なんかもウェブ上でリアルタイムで公開しちゃったり。先頭を突っ走っていくには、他人や他のグループが真似しようが関係なく、オープンでクリエイティブであり続けることだと思う。 

この日記では、「はてなダイアリー」で有名な「はてな」という会社の例を出して、特許についての考えを書きました。bokudeki.me/essay/mainessay/722 

守りに回ったり失うことを恐れたりせずに、常に前進し創造し続けること。それが、最も人間の可能性を引き出す方法なんだと思う。 

オープンソースのLinuxが進化を続けるのも、そういうところに理由があるのかもしれない。

「思考の棚」は、ソーシャル•キャピタルを高める

ちきりんさん(@InsideCHIKIRIN)の言っていた「思考の棚」については、全部読んでないので実はまだ解釈が曖昧なのだけど、僕の解釈では、ケアする対象を広げることによって、茂木健一郎さん(@kenichiromogi)の言う「偶有性」という機会を多くものに出来るということ。 

どんなボールが来てもキャッチ出来るように、受け身なようで自発的で周到な準備をし、常に待機状態にしておくということ。個人的な固定観念でストライクゾーンを狭めてしまってもダメだし、準備不足で一定範囲内の球しかキャッチ出来ないのでもダメだし、待機してなければ球にさえ気づけない。 

例えば、たまたま街中で友達に会って、「今度会ったら言おう」と思ってたことを、その場で思いついて話せるかどうか。例えば、友達Aがルームメイトを探しているという情報を、同じように探している友達Bに会った時に思い出し、紹介出来るか。そういう積み重ねで、思いもよらなかったようないろんな可能性が広がる。 

「思考の棚」を用意するということは、自分が、ソーシャルキャピタルの製造機になるということとも言えるかも。あくまで自分が中心であったとしても、ケアする対象を自分を超えて大きく持つことにより、つながりが広がり、偶有性の余地が増える。

「本当の幸せ」って?

「本当の幸せ」ってどのレベルの幸せのことを言うんだろう?現代を生きる僕たちはかつてない程物質的に恵まれ、幸せだと感じる人も多いと思う。だけど、それが本当に幸せだと言えるだろうか? 

別の幸せの形や可能性を知らなくても、今この瞬間に「幸せ」だと感じていれば、それが本当の幸せだと言えるのだろうか?その「幸せ」は持続可能なのだろうか? 

本当の幸せって絶対的なものだと思う。何が起きても持続するもの。今この瞬間に「幸せ」と感じていても将来その状態が崩れる時が来るとしたら、それは本当の幸せとは言えないのではないか? 

「本当の幸せ」って、自分の外の環境から与えられるものではないと思う。自らが、どんな過酷な環境の中でも作り上げるべきものだと思う。

国や自治体をビジネス•ユニットと見なす

今のご時世、自治体をビジネスユニットと見なして、市民と役所が一丸となって経営していかないと、生き残れない時代だと思う。 

グローバル化で国が強くなるとは限らない。グローバル企業がどんどんリッチになったとしても、それが国益になるとは限らない。アメリカがそうなってないいい例だ。アメリカ発のグローバル企業は、安い人件費の安上がりの国•地域を自由に選んで経済を展開する。多くの企業が、国益なんて気にしてない。 

企業が国益や自分の自治体の利益を考えないなら、国や自治体は、それぞれ生き残りをかけて同じように自分たちに有利なようにビジネスを展開するしかないってこと。 

国や自治体が、自分たちに不利になるような企業の経済活動を制限することは、普通にありだと思う。落としていく法人税や市民の雇用状況などのプラス要素以上に実は損失を被り続けていないか、いろんな角度から審議し、見極めていく必要があると思う。