「人間の為の宗教」カテゴリーアーカイブ

公明党支持だけど集団的自衛権に反対の場合

二つ前のブログ記事で、集団的自衛権の行使容認に反対の意思を新たにした旨書きました。
知っている人も多いと思いますが、僕の支持政党は公明党です。公明党は自民党と連立政権を組んでいて、一緒になって限定的とはいえ集団的自衛権の行使容認を進めています。支持する政党が望まない決断をし始めた時に、どう考え、行動するべきでしょうか?「抗議する」とか「支持をやめる」という手段は当然有りえますが、その政党がそういう決断にに至るまでの前後の文脈的なものや事情を考慮するべきだと思います。

確かに、自民党と一体となって一連の安保法案を推進していて公明党も悪者のように扱われても仕方ないんですが、公明党としてもこの安保法案を推進したくないんです。反対の声をあげたり、連立政権から離れたりしないからといって悪だと決めつけるのは早すぎると思います。

単独で議席数2/3を維持する自民党に対して、政党にしても個人にしても、自分たちの限られた影響力をどう有効に使うかにはいろんな考え方や手段があります。

前提となるのは、2013年の参院選と2014年の衆院選で自民党を圧勝させてしまったという事実。この時点で、安倍さんが集団的自衛権の行使容認を強行することは目に見えていました。

この流れを覆したければ、これらの選挙でそれ相応の行動を起こさなければいけなかった。その責任の一端は、今、各地でデモを起こしている人たちにもあるはずです。要は、この二つの国政選挙の結果で、安部首相の集団的自衛権行使容認の大筋の流れば誰も止められなくなってしまった。

この前提に立つと、自分の(自分たちの)限られた影響力をどう使うかで、民主党のように採決の時にプラカードで抗議することもあれば、国会前でデモをするのも手段の一つ。

公明党も、人数比で言えば微力ながら、法案に賛成する代わりに、可能な限り、容易に戦争に突き進まないための具体的な歯止めをかけようとし、実際に打てた手もあります。それは立派な一手段であり、一方的に責められることではないはずです。公明党がいなかったら、この安保法案は確実にもっとひどいものになっていました。

次の国政選挙は来年の7月。ここに焦点を絞った活動でないと、どれも空振りで終わってしまうと思います。その上で、個人的に外してはいけないと思うのが、以下の3点です。

  • 今の流れを作ってしまった責任の一端は自分にもあるということを自覚する
  • 好き嫌いを超えて、許容範囲を広げて同じ志を持つ人と連帯する
  • 対政府で抗議活動をするのと同じくらい、身近な人や知り合いとの対話を大事にする

僕は今回の一連の流れで容易に公明党支持をやめるつもりはないけど、だからと言って何が何でも公明党支持を維持するつもりもないです。

とにかく、今まで通りこの3点を外さずに行動していくだけです。

【読書1】ラスト♪ソング -人生の最期に聴く音楽-

やがて死にゆく人に対して進んでケアしようとするモチベーションって何だろうか?
それも血のつながりもなく、元々知り合いでもない他人に対して…

先週から週に一冊のペースで読書キャンペーンを始めている。
最初に読んだ本は、「ラスト♪ソング -人生の最期に聴く音楽-」という本。
この本は、米国認定音楽療法士の佐藤由美子さんが語る、実際の音楽療法現場で起きた患者さんとの感動のドラマを収録した本だ。

音楽療法とは、必ずしも死にゆく人のためのケアのためだけではないと思うけど、この本を読んで、音楽療法士が奏でる音楽が人の生死にすごく影響があるということを知った。

意識のないまま寝たきりの老母テレサの介護を続ける兄妹のストーリーでは、佐藤さんが初めて音楽を奏でた後にテレサが静かに息を引き取ることになる。
ある意味これは自殺幇助になりそうだけど、その裏で、佐藤さんの音楽が親子の間の意思を疎通させ、老母は安心して逝く準備が出来たのだと思う。

人は自分の死期をコントロールすることが出来るのだろうか?

高校卒業前の子を持ち、余命宣告をされ闘病生活を送っていた若いシングルマザー・ハナのストーリー。
息子のライアンが高校の卒業式を迎えるまでは生きたいと願っていた。
アメリカでは高校を卒業したら、子は親の元から巣立つものらしい。
逆にいうと、子どもを高校卒業まで導くことが親の責任だと考えられている。
6ヶ月の余命宣告に対して、卒業式まではまだ1年ほどあった。
しかし、結果的に(病棟での)卒業式の数日後まで生きながらえた。
その間に、佐藤さんの音楽療法がどれだけ闘病中のハナへの励みになったかは計り知れない。
そして、その後のライアンの人生への影響も…

音楽療法士に限らず、やがて死にゆく赤の他人にケアを施していくモチベーションとは一体何だろうか?

一つは、単純に「仕事」として割り切ってのモチベーションが挙げられると思う。
これはごく当然のことで、こういうモチベーションだとしても後ろめたく思う必要はないと思う。

二つ目は、やがて死にゆく人に寄り添い、人の死に触れることでかけがえのない気づきがあるということ。
つまり「自分のため」というモチベーション。
難病のALSとの苦しすぎる闘病の中でも笑顔を絶やさず前向きに生きる患者や、その他、死が間近に迫った人から発せられる言葉から学べることはものすごく多いと思う。
死の準備ができていない患者から発せられる言葉に影響され、グリーフに苦しみ、それを乗り越えようとすることでさえ、かけがえのない経験になるはず。
この本に綴られている実話は、筆者の佐藤さんに多くの気づきや体験をもたらし、それを書き起こすことによって、自分の中で昇華していったのだと思う。

3つ目は、これまで紹介してきた2つのストーリーのように、死にゆく本人の周りの人間への影響が社会を通して巡り巡って自分に帰ってくるという考えから来るモチベーション。
この2つのストーリーで言えば、老母を介護していた兄妹とシングルマザーの子どものその後のことを想像してみるといい。
実際はどうなったのかは分からないけど、佐藤さんの音楽療法のケアがあった場合となかった場合の彼らへの影響はとても大きいと思う。
佐藤さんのように、こういったケアを施そうとする人が増えたら一体どうなるのかを想像してみるのも大事だと思う。

4つ目は、宗教的な話になるけど、死後の世界をどう捉えるかという問題で、肉体は朽ち果てても生命は永遠に続くと考えるならば、やがて死にゆく人でさえ来世に向けてまだやれることはあるということになる。
逆に、「死んだら無になる」と信じれば、やがて死にゆく人に施すケアは無意味なものとなり、更なるモチベーションは生まれないと思う。
死後の世界について、ひとそれぞれ何かしら信じているものがあり、どう捉えるかによって行動や生き方が変わるはず。
個人的には、どうせ信じるなら、自分がより豊かな生き方が出来る方を選ぶ。

だいぶ散文になってしまったけど、この本を読んで感じたことはここまで書いてきたとおり、「やがて死にゆく人にケアを施すモチベーションはどこから生まれるか?」ということだった。

このテーマを掘り下げるのにどれだけの意味があるのかは分からないけど、メモがてら書き残せてよかった。

集団的自衛権①:あまりにも予定調和的な公明党への抗議

今回の集団的自衛権に関する憲法解釈の変更の閣議決定について、以下の前提で書きたいと思います。

公明党の対応を全面的に支持している訳ではない
憲法解釈をこんな短期間で強引に変更するのには反対

今回の閣議決定に公明党も参加したことで、自民党と同じように公明党もどっぷりと抗議の対象になっている。
「待っていました!」というばかりに…
僕にはこれがあまりにも予定調和的に感じられていつもながら違和感を感じてしまう。
あたかも、最初から自民党と一括りにて敵のカテゴリに追いやろうとして、予め用意したシナリオの通りになったというような…

今の公明党には確かに自民党の暴走を止める力はない。
一支持者として、その点は反省し、次の選挙に向けて責任を持って行動したいと考えている。
だけど、今回の閣議決定の内容には、容認したとはいえ、公明党の要望が相当程度に反映されていて、かなり抑制的な内容になっている。
これは、実は具体的に大きな成果のはずだ。
二度の選挙で自民党を圧勝させてしまった状況を考えれば、この公明党の決断は最善だった可能性もある。
現に、どんなに反対・抗議運動をしている人でも、公明党以上に成果を残せている人たちはいない。

この成果を過小評価して、自民党と同列に悪者に仕立てあげられるのってのは、ただ公明党が嫌いとかそういうのが根底にあるとしか思えない。
初めから仲間だとは思ってないし、仲間に加える予定もなかった。
公明党が今でも可能な限り憲法を護ろうと考え行動をしていようとも、ただの敵だからそんな努力は無いも同然。
十分仲間になれる人たちなのに、自ら積極的に敵に回してしまっている。

潔癖症過ぎなのか、単に好き嫌いで動くエゴ集団なのか、どちらにしてもその排他性があるうちは具体的な連帯は生まれず、運動は空振りに終わってしまうと思う。
ある意味、思い通りになったといえるけど、結果的には最終的な目標やゴールからは遠ざかってしまったともいえる。
これが予定調和の限界であり、この予定調和をぶち破る寛容さと柔軟さが僕たち国民に不可欠なのだと思う。

「レ・ミゼラブル」の脇役の蘇生劇にも注目したい

映画「レ・ミゼラブル」を観ました。
映画館で観たのに続いて2回目。

前回観たときも、感じたことを思い興されたことをブログに書きました。

「レ・ミゼラブル」は、「蘇生」の物語の王道
bokudeki.me/planning/entertainment/96042

今回、観て感じたことをメモがてら残しておこうと思います。

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何と言っても、この映画は主人公のジャン・バルジャンの蘇生の物語。
家族のためにたった一切れのパンを盗んだだけで20年も服役させられ、怒りと憎しみに満ちていた男が、聖者のように人のために生きるようになる。

彼の蘇生劇は物語の核だけど、その他の登場人物にも重要な蘇生劇があると今回観て感じた。

■ジャン・バルジャンを苦しめ続けた警部補のジャベール

彼は、法の秩序に異常なまでの執着を見せ、自分の罪までも法に則って厳しく罰しようとするほどするほどの堅物。
ジャン・バルジャンを追い続けたのも、例外無く法の裁きを受けさせようとした彼なりの使命感からだった。

この物語を読み進めていって、誰もが「彼は変わらない」と思うだろうけど、そんな尋常ではないほどの堅物が最後には変わってしまう。
それも、その蘇生劇は、この物語の中では最も短い時間の間に起こる。
結果的に、彼は自殺してしまうんだけど、彼の蘇生劇はその後の社会に少なからず影響を与えることになったと思う。(推測だけど)

彼は、ジャン・バルジャンの慈悲深い行動の中に、かつて受けたことのなかった「愛」を感じた。
それは、怒りと憎しみに満ちていたかつてのジャン・バルジャンが、自分に善く生きるチャンスを与えてくれた慈悲深い神父に受けたものと同等だったのだろう。

そんな「ペイ・フォワード」的なことは今の時代では胡散臭く映るかもしれないけど、今の時代も例外無く、人々の心に最も突き刺さる物語なんだと思う。

■救いようの無い両親の間に生まれたエポニーヌ

個人的に、このエボニーヌの生き様にひどく心を打たれた。
あんな救いようのない両親に育てられたら、心がひん曲がった嫌な人間に育ってもおかしくない。

でも、彼女は、自分と対照的に美しく幸せに育ったコゼットへの嫉妬心に負けなかった。
しかも愛していたユリウスがコゼットと結ばれることを助け、さらに彼女は革命のためにユリウスをかばって死ぬことになる。

こんなに美しい精神を持てる人はなかなかいない。(フィクションの物語の中の話だけど…)
それも、そんな人物があの救いようのない両親から生まれ育てられた。(という設定になっている)

そういった意味で、このエポニーヌもレ・ミゼラブルの中でとても重要な役なんじゃないかと思う。

■エポニーヌの実弟ガヴローシュ

映画を観ただけでは気づかなかったのだけど、この少年もエポニーヌと同じ両親から生まれている。(エポニーヌとは姉弟)
親の愛を受けずに育ち、バスティーユ広場周辺の路上で生活するようになるのだけど、たまに家に帰っても歓迎されない為、また路上に戻っていく哀れな子ども。
だけど、エポニーヌと一緒で、ふて腐れる訳ではなく、両親とは別に自分らしくたくましく生きて行くことになる。

 パリの学生を中心とした王政打倒の六月暴動。
学生達は、市内の狭い路地に築いたバリケードの内側で、進むか退くかの選択に迫られていた。
ガヴローシュは一人バリケードの外に出て、民衆の歌を歌いながら敵を挑発し、やがて銃弾に倒れた。

その少年の無謀とも言える行動に突き動かされ学生達は最後まで戦うことを決意した。
結局、マリウスを除いて他すべての学生達が銃弾に倒れることになる。

だけど、ガヴローシュのこの勇敢な行為は、ジャベールをも動かした。
亡骸となったガヴローシュの胸に自分の勲章を置くシーンは何度観ても胸を打つ。

恵まれない家に生まれた子どもとはいえ、それだけの影響を社会に及ぼすことが出来ることをユゴーは伝えたかったんだと思う。

「政教分離の原則」についての正しい理解

今更ながらですが…

この映像を見て、「公明党や創価学会が悪いことをしている」というような見方をした人は、ぜひこれを読んでほしい。

「政教分離の原則」とは?

冒頭のYoutubeビデオでは、池上彰さんが「創価学会と公明党の関係が政教分離の原則に反するのではないか?」という声を紹介している。

結論的には、創価学会と公明党の関係が政教分離の原則に反することはない。
「創価学会=公明党」と完全に一致したとしても、問題ない。
創価学会の(功徳の出る)宗教活動が支援の活動と一致したとしても、法に触れることはない。
創価学会のトップの池田名誉会長がすべて政策を決めていたとしても(そんなことはあるはずないが)法律的には大丈夫。

内閣法制局の一貫した見解は以下の通りです。

憲法の政教分離の原則とは、信教の自由の保障を実質的なものとするため、国および­その機関が国権行使の場面において宗教に介入し、または関与する­ことを排除する趣旨である。それを超えて、宗教団体が政治的活動­をすることをも排除している趣旨ではない

つまり、政教分離の原則が適用されるのは、国家権力を乱用して国が特定の宗教に特権を与えるような場合に対して。具体的には、戦前の日本の「国家神道」のように、特定の宗教が国家における特権を持ってしまうような場合。創価学会が国から特権を与えられている訳ではないので、国権を乱用しない限り、いくら政治的活動をしても法に触れることはない。

その前提で冒頭のビデオを見てみると、佐々木さやか候補(現参議院議員)は至極全うなことを言っているし、公明党や創価学会としてもこんなこと指摘されても痛くも痒くもないことが分かる。

他の政党と同様に、民意による審判を平等に受けるだけ=民主主義の範囲内

一政党が宗教と一致したところで、法に触れることもなければ民主主義を脅かすものでもない。

良く考えてみてもらえば分かると思うけど、宗教が政党と一致したところで、他の政党と同じように選挙で民意による審判を受けるだけ。現に、2009年の衆院選では、公明党の選挙区は全敗だった。追い風の時もあれば逆風の時もあり、公明党や創価学会には結果をコントロールする力はない。他の政党と条件は同じで、むしろ悪い偏見があって不利な立場にあるくらいのはず。

もし、公明党が気に入らないなら、民主主義的な方法でいくらでも蹴散らすことが出来てしまう。やり方は簡単。投票率を上げて公明党以外の政党に入れるよう働きかければ今の状況をひっくり返せる。

このことから分かるとおり、宗教団体が特定の政党と一致したからといって、法に触れるどころか、民主主義を脅かすこともない。

個人的には、むしろ、それ以外の人がもっと協力・団結して、宗教政党なんか蹴散らせるくらいの勢力になって欲しいくらい。見方を変えれば、僕たちの国は、宗教と政党が一致したくらいで脅威を感じてしまうくらい、民主主義が脆弱な社会だってことではないだろうか。

実際の創価学会による公明党支援はどんな感じ?

冒頭に紹介したYoutube動画で池上さんが、「功徳、つまり、宗教活動のために選挙支援しているのか?」と質問していた。これに対しては、宗教の教義を選挙運動に結びつけるのが道徳的か?という問題はあるかもしれないけど、当然ながら法には触れない。信教の自由の範囲だし、支持団体の支援の一手段に過ぎないから。

では、実際の創価学会による公明党支援とはどういうものか?

個人的には、「参加して育てる育政」が機能している数少ないケース:公明党でも書いた通り、日本では、公明党は「参加して育てる育成」が機能している数少ない(唯一の?)政党だと思っている。

公明党の支持者は、思考停止状態で支援をしている訳では必ずしもない。リスクを背負って選挙支援をするからには、支持した議員や党に対して厳しく監視し、積極的に働きかける。記事の中のNPOフローレンスの駒崎さんの言葉にある通り、簡単には見放さず使い捨てにはしないので、議員も育つ。政党としての実績も蓄積され、党内の合意も方向性も安定する。

公明党が政治の世界で狂信的に振るまっているかといえばそうでもない。実現してきた政策は、白内障手術の保険適用や、ストーカー対策法の強化、脱法ドラッグの完全禁止やナンバーポータビリティ制度の実現など、生活に密着したものばかり。支持母体である創価学会のためだけの政策というのも見たことがない。

僕にとっては、公明党はパーフェクトとは程遠いけど、体を張って支援するのに足りる政党。他にも、こういう風に自分でしっかり納得して公明党を支援している人も少なからずいるはず。こうやって良く見てみると、公明党を取り巻く支援活動は、民主主義国家としては当前のものだといえる。

逆に言えば、消極的に選んで気に入らなくなったら捨てるという「放置して消費する政治」を未だにし続けている人の方がよっぽど問題。このような創価学会による公明党支援が気に入らないなら、あなたが模範を示して欲しい。

まとめ

これまで書いてきたことをまとめると…

  • 創価学会の公明党支援が政教分離の原則に抵触することはない
  • 実質的に創価学会の支援活動は日本では最も民主主義的に行われているといえる
  • 公明党は狂信的なわけではなく、ごくまともな政策を地道に実現させている

つまり、公明党は、法律に違反している訳でも、狂信的な政党という訳でもなく、ごくまともなことを地道にやっている政党だということ。

この政教分離云々以前に問題なのは、こんなことを脅威に感じ、民主主義的な方法ではなく、権力を使って排除しようとする弱腰な人たちだと思う。民主主義的な方法でいくらでもどうにかなる問題なのに、自分では行動せずにデマを流し続ける人もいる。事実を知って(事実に目をつぶって)いながらデマを流し続ける確信犯的な人もいる。

そういう人たちには結局は届かないだろうけど、物事をフェアに見れる人へ正しい理解をしてもらうために、この記事を書きました。こんな低次元の議論から一刻も脱却するために、できるだけ多くの人が正しい理解に立ち、声を上げて欲しいと願いつつ。

「創価学会」をタブーにしない

池上彰さんの選挙特番で、創価学会が話題に上がる場面があった。

埼玉選挙区で1位当選した自民党の古川俊治さんを紹介するフリップに「創価学会が嫌い」というコメントが書かれており、同選挙区で2位で当選した公明党の矢倉克夫さんとの今後の関係について切り込んだ形だった。

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誰でも知っているように、公明党の支持母体は創価学会であり、当然、矢倉さんも創価学会員。古川さんとしては複雑な気持ちなのかもしれない。

司会の池上さんが古川さんに創価学会が嫌いな理由まで聞いてて、かなりタブーに切り込んでくれた。それも、全国放送の注目の選挙特番で。

古川さんの回答は「創価学会の本部がある信濃町にある病院で肩身の狭い思いで働いていたのが関係している」というようなものだった。恐らく本音は別にあるとは思うけど、テレビでこういうやり取りがオープンに行われるっていうのはとてもいいなと思った。池上さんの意図はよく分からないけど、タブーに切り込んでもらえて個人的には感謝している。

その他、この特番では、創価学会についての特集や、公明党の佐々木さやか候補へ政治と宗教の関係のことを切り込んでいる場面なども報道されたらしい。

普段は、テレビでも全国紙でも、創価学会の話題はほとんど出てこない。悪い情報もないけど、良い情報も全く出てこない。まさにタブー視されている状態。裏の組織とかならまだ分かるけど、表の社会で活躍しようとする組織にとって、タブー視されることがプラスに働くことは恐らくないと思う。

僕は途中入会だから、創価学会の内と外とどちらも知っている。創価学会の内部は、日本の一般社会とは文化がかなり違うということは言える。まるで日本の中に外国があるみたいに。傍から見たら、「過激」と映ることも多々あると思う。

でも、だからと言って、それだけで一概には優劣はつけられないはず。世界的に見たら、創価学会の文化の方が世界のスタンダードに近いのかもしれない。逆に、日本人の国民性は、もしかしたら世界的に見たら異端ということもありえる。

何しろ、「創価学会」というものをタブーにせず、ポジティブなこともネガティブなことも、オープンに話せるような社会になってほしい。そういった意味で、池上彰さんの選挙特番はとても新鮮で、何かこのあたりの状況に変化がありそうな兆しを感じられた。

3・13という実際の誕生日と同じくらいの意味を持つ日

The First Sight

3年半に渡るアメリカ生活から日本へ帰国し、1年が経ちました。
そして、創価学会に入会し、仏法を実践し始めてから8年が経ちました。
3月13日という日は、僕にとって、実際の誕生日と同じくらいの意味を持つ日です。
毎年、この日を何かの節目としてきました。
だからと言って、毎年、着実に思い通りに生きていけてる訳ではありません。

8年前、信心を始めた当初、自分の蘇生とも呼べる内なる変化に驚きました。
まさに、恐いものなしでした。
その時にしたのが、今、再投稿しているアメリカ西海岸縦断の一人旅です。
信心するとすぐに現れるという「初心の功徳」は、僕にとってこの旅のことだったと思ってます。

それ以降、数年は恐いものなしでこれでもかってくらい精力的に様々なことに挑戦しました。
本や新聞を読んだり、社会問題などのテーマの講演会に参加したりして、もの凄いスピードで様々なことを吸収していきました。

このままばく進し続けられるかと思いきや、そうも行きませんでした。
元々、入会前から、「信心すると幸せになれるけど、その分、忙しくなるし、苦労も増える」と聞かされてました。

さらに、信心には二つの山があり、一つ目の山である「初心の功徳」を堺に、次の山を登り始めるまでは坂を転げ落ちる、ということも聞いてました。
不思議なくらい、そうなっています。

アメリカ留学なんてしなければあんなに苦労することはありませんでした。
まちづくりなんて、誰かに任せてしまえは、そんな悩みからは解放されます。
ボランティアなんてせずに自分だけの利益の為に行動すれば、時間も労力も節約出来ます。
学会をやめてしまえば、友達も離れていかないし、新たな友達も作りやすいかもしれません。

実際に、僕は苦労する道を選んでいます。
あえてそうしているのか、ただのバカだからなのか、自分でも分かりません…
あれから8年経った今、環境は良くなったとは言えないし、悩みや苦しみは絶えません。

ちょうど花粉症が辛い時期っていうのもあるんですが、なかなかモチベーションがあがりません。
入会当時のように何でもどん欲に挑戦し、吸収出来ないし、「恐いものなし」ではありません。
それどころか、正直、行き詰まっているし、恐いものばかりです…
自分のアイデアや考え方に自信があっても、これだけ相手にされないってことは、自分が頭がおかしいのかもしれない、って思うことも多々あります。
そういう心境も実際にあって、隠す気はありません。

でも、それでも理想は膨らむばかりなんです。
理想と現実のギャップがこれほど開いてしまったことはないかもしれません。
現実がなかなかついてこなくて、そのぶん辛く苦しくなるばかりです。
でも、それでも理想を高く持ち続けることで、実はその分、前進も早い。

人間の成長とか蘇生って、そういうことなんだと思う。
理想が高くても現実がついてこなければ、諦めたり、ズルをしてごまかそうとするもの。
でも、本当に成長出来る人は、どんなに理想と現実のギャップがあっても、進み続ける人なんだと思います。
僕はまだ道半ばで、途中で諦めたりごまかしたり、あるいは結果的に間違った方向に向かってることに気づくかもしれません。

どんな形になっても、僕の生き様を見ていて欲しい。
10年後、20年後、あるいは死ぬまでに、どれだけ理想に近づけるかを。
この先、本当に二つ目の山を登り出すことがあるのかを。
どれだけ社会や環境に変革をもたらせるのかを。

そして、仏法を実践することによって、どれだけ人は幸せになれるのかを。

今回も、公明党を支持します

僕は、長年、公明党の支持者です。
今回も、いろいろ考えた結果、公明党を支持することに決めました。

公明党がパーフェクトだなんて間違っても言えないけど、
少なくとも他の政党よりベターだと思ってます。
これは、出来る限りフェアな視点で日本の政治を研究してきた結果です。
個人的には、長年、変わらず支えて行こうと思える政党を持てて幸せです。

何故、公明党を支持するのか?
「創価学会員だから自動的に」だと思いますか?
それもほんのちょっとありますが、他に公明党を支持する理由は沢山あります。

一番大きいのは、「地方から国政へつながるネットワーク性」です。
公明党には、全国に根付く約3000人の地方議員の存在があります。
そして、党内に縦割りの差別のない一貫したネットワーク構造があります。
自分の声が国政まで届く可能性のあるのは、公明党だけなんです。
震災対応では、この公明党のネットワークがフルに活かされました。

そして、「地域主権の道州制」を1991年から一貫して推進してきたこと。
僕は、アメリカでコミュニティ開発を学びました。
そこでは、徹底して、地域主権のことを学びました。
明らかに何でも中央集権では無理がある。
僕は、公明党が言ってなくても、地域主権の道州制は支持してました。

さらに、今回の政権公約で言えば、防災・減災ニューディールの先見性があります。
中央道の笹子トンネルで痛ましい崩落事故が起こりました。
日本では、こういう事故が起こらないと、重い腰を上げません。
いちいち事故が起きてから対応していたら、様々な面で打撃を受けます。
いくらバラマキだとは言ってみても、防災・減災の為のインフラ整備は必要です。
これを、景気対策と絡めて集中して行うというアイデアはとても説得力があります。
公明党では、時間をかけて党内での合意形成をしてきたので、それだけスタートも早い。

それに、政権与党だった時、マニフェストの政策ごとの進捗度を公開していました。
達成した政策も数多くあり、ほとんどが着手済みになっていました。
周りの党は、実績のページさえも無かった頃に、それだけ透明性を維持出来たのはすごいことです。

その他、「育児」と「若者」の政策で最も実績を上げてきているのも公明党だと思っています。

多くの人にとって公明党は眼中にないようです。
中には『よく目にする「公明党には投票しない理由」について』で書いたような
つまらない理由で切り捨ててしまったら、日本のためにならないと思います。

「創価学会員は思考停止して公明党に投票する」っていう人は沢山いますが、
このように、公明党を選択する理由は厳然とあるんです。
逆に、公明党がいなかったら、積極的に投票しようと思える政党は見当たりません。

本当に日本を良くしたいのなら、他党の良いところもフェアに掘り出して、
その上でもっと優れた政党に育てられるように、支持者が模範を示すべきです。
個人的には、公明党よりベターな政党がどんどん現れてくることを期待しています。
宗教団体が政治に関与する必要のないくらいに政治が機能している状態の方がいいに決まってますから。

よく目にする「公明党には投票しない理由」について

「公明党には投票しない理由」をネット上でよく見かけますが、その中でもフェアではないと思うものについてモノ申したいと思います。

僕は個人的に公明党を支持していて、以下のようなフェアではない理由で公明党が選択肢から除外されるのは、日本全体として考えた時にマイナスだと判断したので、この記事を書くに至りました。フェアな判断の上で公明党が選択肢から外される分には、僕としては何の文句もありません。

 

「政教分離に反する」という理由

政教一致とは「政治と宗教の一致」のことです。例えば、イスラム教が国教となっていような状態を指します。なので、政党と宗教が一致したとしても法に触れることはありません。「宗教が嫌い」とか「創価学会が嫌い」という理由で敬遠するならまだ分かるのですが、「政教分離の原則に反する」というデマをこれ以上広げる行為は看過できません。

「創価学会の会員だけのためにあるから」という理由

そもそも、公明党の過去の政策や実績で、創価学会の会員だけのためのものってあったのでしょうか?あれば、どれか教えてもらいたいです…

「自民・公明はセットでダメ」という理由

この理由も多いですが、自公政権の時、実権は自民党にあったので、公明党にはその方向性を覆す力はありませんでした。そんな中での公明党の役割は、自民党が独裁的に決めた大筋の政策には同意する代わりに、その中で暴走している部分をうまく調整して機能させる「調整役」でした。

民・自・公の消費増税の協議の時も、参加しなきゃ民・自でほとんど調整されずにさっさと決まっていたところを、「軽減税率」や「名目3%の経済成長率」などの条件をねじ込みました。いくつかの政党が連立したとしても、一括りには見ずに、政党ごとの行動をしっかり分析するべきだと思います。

「支持者(創価学会員)がうざい」という理由

これは、確かに、ロボットのように聞く耳持たずに選挙のお願いだけする迷惑行為が実際にあると思うので、もっともな部分もあります。ただ、票を積み上げる動機があったとしても、情報提供や議論を深めるという形で知り合いに働きかけるのは、むしろより民主主義的なものです。いろいろ主張し合えばいいと思います。

「野党では所詮は反対政党」という理由

野党に落ちると確かに反対しかしないように見えるもので、実際、「反対のための反対」しかしていない政党もあります。公明党ももちろん、与党の政策や法案に反対することもあります。ただ、野党に落ちても着実に実績をあげています。

例えば、3・11後の野党時代、2011年に公明党がリードして成立した議員立法は、復興庁や復興債、復興特区など、震災関連だけでも計16本に上ります。野党に落ちてもなお、キャスティングボートを握れるのは、実行力に優れ、今後の実現力への信頼につながって当然です。

 

以上の項目について何かコメントがあれば言ってください。

言葉を封じず、可能性を拓く

もう一つもどかしく感じ続けていることがある。自分が学び、経験して培った考え方には、絶対正しいだなんて思わないけど、結構自信がある。そればかりに、上から目線で話していると思われたり感じが悪いと距離を置かれてしまうのか、その考え方や可能性の正当性を検証するまでに至ったことがほとんどない。

よくあるシチュエーションが、「自分にはこれだけ可能性がある」とか「もっと評価されるべきだ」とか言っている人を端から見てて、「勘違いしてんじゃねぇよ!」「自惚れんな!」って反射的にどこかでささやかれるだけで、そのまま放置されるというもの。このろくに検証もせずに否定する圧力が、日本をダメにしてると思う。

何かの可能性に対して、想像力を働かせることも検証してみようとする意思もなければ、その可能性に対する正当な評価なんて出来っこない。そうすると、結果的に可能性は拓かないから、状況も良くならないし、むしろ悪くなるばかり。まさに、今の日本の状態。

お互いの正義のぶつけ合いだけじゃダメだけど、根気よく対話し合って認め合える部分が一部でもあって欲しい。お互いに牽制し合うだけで、それさえも見いだせないのは何とももどかしい。

こういう風に言えば、「お前にも落ち度があるんじゃないのか?」と言われるかもしれない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。僕にも何がその原因なのか分かってない。僕がもどかしさを感じるのは、お互いに勝手に推測するだけで、検証されることなく放置されるだけになること。十分な検証の結果、本当に勘違いや自惚れだということが判明すれば、自分にとっても前進だ。

僕がわざわざこんな痛いつぶやきを流すのも、そういう「お互いに勝手に推測するだけで、検証されずに放置されるだけ」という状況が他にもあって、もどかしい思いをしている人がいるんじゃないかと推測すること。そして、例えば、この推測も沈黙のうちにいろいろ推測されるだけで、そのまま放置かもしれない。

人間の可能性っていうものは、今この瞬間のスナップショット的なものでは到底計れず、将来的にどこまで拓くことが出来るかは簡単に分かるものじゃない。想像力を全開にして描いてみれば、全く違ったものになるはず。それもせず、しかも、今のスナップショット的な状態もろくに検証しないようじゃ話にならない。

また、一概には言えないけど、僕が出会った範囲のアメリカ人は、他人がする自分をアピールする話(自慢話を含む)にとても寛容だった。自分のことを語りたいだけで他人のことにそれほど興味がないっていうのもあるけど、少なくとも、妬みとかから反射的に「勘違い」とか「自惚れ」と言われ、言葉を封印されるようなことはなかった。

日本では言えない言葉がたくさんある。そういう空気を作り出しているのは僕たち一人ひとりなんだと思う。言葉を封印されるというのはとても苦痛なこと。それによって、いろんな機会や可能性が失われる。「可能性を拓く」という以前の問題。

「可能性を拓く」ということがプラスの効果とすれば、「言葉を封じる」ということはマイナスの効果になる。プラスにすることも出来るのにマイナスにしてしまえば、2倍損をするということになる。日本では、「可能性を拓く」まで至らず、しかも「言葉を封印する」という余計な効果で、更にマイナス効果を出してしまっている。

誰かが何かの可能性を言葉にしたとき、推測しあって牽制・放置せずに、とことん対話して、その可能性の正当性を検証してみればいい。それだけの時間も余裕もなければ、下手な推測をして言葉を封じずに、温かく見守るべきだと思う。