「人間の為の宗教」カテゴリーアーカイブ

「尾崎豊」に関する僕の雑感

 

今時の若者が尾崎豊に共感しない理由の勝手な考察

尾崎豊はやっぱ熱いな〜。伝説的な表現者だと思う。今の若い人たちで、尾崎に共感する人は少ないみたいだけど、よく考えてみると、確かに共感しそうな要素が無いかも。まず、「自由」というものに対するアプローチが違いすぎると思う。

尾崎豊の「僕が僕であるために」という曲にあるように、彼は「何かに勝ち続けなければ自分らしくいられない」と考えていた。「自由」とは「不自由さ」との格闘のプロセスの中にしかないということだと思う。恐らく、こんな風に「自由」というものを捉える若者は多くはないと思う。

カラオケの楽しみ方は人それぞれだけど、カラオケに行くたびに思う。何ていう薄っぺらい歌い方をする人が多いんだと。ほとんど動きも表現も感情もなく、ただ音程を合わせるだけ。音読で言えば、棒読み状態。いくら歌がうまくても、その高欲感は持続しない。また、敵を多くしそうなつぶやきだけど…

まるで、そういう人たちが、狭い鳥かごに、外の世界があることも知らずに閉じ込められている小鳥のように感じることもある。個人的な見方に過ぎないけど、尾崎はとっくに鳥かごから出て外を自由に飛び回っていた。だとしたら、カゴの中の鳥たちに尾崎豊に共感するのが難しいのは当然だと思う。

確かに、今の時代は、自分らしくい続けることが難しい時代。カラオケで、無難に音程だけ合わせて上手に歌おうとする人たちに、僕は自分らしさを感じない。カラオケはストレス発散の遊び場だけど、カラオケにも自分を解き放てないような空気がある。

そういった空気を破るのはとてもリスクがいること。そのリスクをとらずに、その空気の中で安住してしまう人が少なからずいる。日常生活の中では何不自由なく生きていけても、心の中では何かに縛られ続けることになる。

 

「非行に走る」ことさえ価値になってしまう時代

「自分らしさ」とか「本当の自由」に行きつくまでに、人は少なからず遠回りするものだと思う。試行錯誤を繰り返し、失敗し、他人に迷惑をかけながら。尾崎はそのありのままの過程を、歌を通して示してくれた。僕たちが言葉に出来ない「生きづらさ」を代弁してくれた。

「バイクを盗んで走り出す」って行為だけを見れば、当然、肯定は出来ないないこと。だけど、本当の自由に行きつくまでに、そういう「無責任な自由」の経験が必要な場合があるかもしれない。それは、「教育」や「コミュニティ」がしっかりしていない場合。

むしろ、今のような「教育」や「コミュニティ」が崩壊な状態なら、若者が非行に走ることも、結果的に(10年、20年経った時に)、十分な糧になってしまうこともある。残念ながら。だからって「若者よ、非行に走れ」なんて言わないけど、それより「教育」や「コミュニティ」を立ち上げ直そうといいたい。

尾崎豊の歌のメッセージの根底には、そういうメッセージがあったんだと、僕は勝手に想像する。非行を推奨している訳じゃなく、自分が感じていて他の多くの若者が感じるであろう、窮屈で見放された感覚をありのまま表現し、未来の世代に持ち越しさせないよう大人たちにうったえる…というような。

今という時代は、尾崎豊が生きた時代とも事情が大分異なる。今は、昔のようなあからさまに非行に走る生徒もいないし、あからさまに荒れる学校は減ったけど、その代わり、見えにくい形で陰湿なイジメが増え、通り魔や親子間の殺人など含め、凶悪犯罪が増えた。とても複雑な結果だ。

尾崎が生きた時代は、15歳でバイクを盗んで走り出したくなる時代だったんだと思う。で、今は、そんな元気も気力も起こらないほど無気力な時代なんだと思う。元々問題なのは、教育やコミュニティが崩壊しているからではないか?それは、大人たちの、子どもたちの可能性に対する軽視から来るはず。

盗んだバイクで走り出したり、キレて手に負えなくなったりする若者たちを一方的に責める前に、まず大人たちが若者たちの心の声を聞こうとすることが大事だと思う。それが「教育」であり、「コミュニティ」というものなんだと思う。

 

「自分を押し殺して長生きすること」と「自分を解き放って早死にすること」

僕も自由を心底求めてる。それだけに、自分を押し殺して生きることに、とても苦痛を感じる。自分を押し殺して生きるってことは、「魂の自殺」に等しいと思う。そんな状態で生きることに意味があるのか?それなら、魂を解放して朽ち果てた方がまだましなのかもしれない。

僕は普通に熱い人間だと言われるけど、実はこれでもけっこう抑えてる。尾崎豊みたいな生き方をしたら、僕も体が持たないかもしれない。そういった意味で、個人的には彼に勝手に同苦してしまうところがある。尾崎の死因は、自殺、他殺などいろいろ説があるけど、結果的にどういう死に方をしたにしろ、その過程に少なからず社会からの圧迫があったはず。

誰も、彼を全肯定することも全否定することも出来ない。尾崎は完璧とはほど遠い人間だったと思う。「社会のせいにし過ぎ」っていう意見もあり、非行に走ったり覚せい剤に走ったり「無責任な自由」に溺れていた面もあった。だけど、だからといって、そこだけ切り取っただけで全否定もしてはいけない。

彼が「若くして死んだ」という事実に対して、それぞれで感じることがあるかもしれない。個人的には、人生の価値は「長さ」で決まる訳ではないと思ってる。生きている間に「どれだけ命を使った」か。つまり「どれだけ使命を果たしたか」で決まる。「自分を押し殺して長生きすること」と「自分を解き放って早死にすること」と、どちらが価値的かの判断は、一筋縄にはいかないはず。

 

個人的に、タブーになるほど人々の意見が極端に分かれるところに、何か重要なことが潜んでいると思う。この「尾崎豊の生き様、死に様」もその一つ。僕はそれが何だか分からないけど、彼のことに限らず、僕が感じることを示すことによって議論が深まればいいなと思う。その先にあることを僕も知りたいから。

実は驚くほど自分に近い?「仏」の姿

Buddha

「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ 教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ」日蓮

これは今月の座談会で扱った御書の一節なんだけど、僕はこの御書が好きだ。仏法を学び始めてから最も衝撃を受けた御書。何しろ、「仏」とか、そういう人間を超越してそうな存在に対するイメージが劇的に変わった。

みなさんは、「仏」と聞いてどんなイメージを抱くだろうか?僕は、昔、「仏」って人間を超越していて、「苦しみ」とか「悩み」とかとは無縁な別世界に住む存在だと思っていた。だけど、仏法の世界の「仏」像は全く違う。嫌悪感を感じるほど違うと思う。

成仏した(仏に成った)とされる不軽菩薩(釈尊の過去世の姿)は、僕らと同じこの地球に生まれ、人々を導いたとされる。「仏」といえば、自分を棚上げして安全なところで人々に説教をしたイメージもあったけど、実際は、人々から暴言を浴びせられ、杖で打たれ、瓦や石を投げられて迫害されていた。

不軽菩薩のすごいところは、それだけ迫害されても人と関わることをやめなかったこと。どんなに意地悪されて暴力をふるわれても、人々に備わる「仏の生命」を礼拝してまわり続けた。その実践の中で、やがて六根清浄(生命の浄化)の功徳を得て成仏したとされる。

不軽菩薩は、釈尊(お釈迦様・ブッダ)の過去世の姿。ということは、釈尊は果てしなく昔から実は成仏していたということ。それなのに、この地球にまた生まれ変わり、人間として泥臭く活動をした。「仏」とは、自ら願ってそうするものなんだと。

釈尊がこの世に出現した根本の目的は、「人の振る舞い」を示すことにあったとされる。人々は、「あなたには仏の生命がある」と言われても簡単には信じない。「おれにそんな可能性があるわけないだろ!」とキレて暴力を振るうくらいだから…

釈尊は、最初から、説教しただけで人々が悟りの境地に至れるとは考えていなかったのだと思う。だから、自分を安全で別次元の存在に棚上げせず、わざわざ乱れた世相の世界に人間として願って生まれ、「人としての模範を示す」ことによって人々を導こうとした。

意地悪されたり暴力を振るわれ迫害の連続でも人間臭く、泥臭く人と関わっていき、次の世でも同じように泥臭く人々を導いていくことを願う…これが「仏」像だとしたら、みなさんはどう思いますか?僕には、考え方が180度変わるほど衝撃的なものでした。

「仏」の世界に、自分以外の「環境」は関係ない。苦悩に満ちた地獄のような環境においても、変わらず仏の境涯で人々を導いていけるのがむしろ仏だということ。「そんなことはしたくない」と思えるくらい、実は、僕たちにも現実的に出来そうなことではないかな?

「仏」っていうのは、僕らの想像よりずっとずっと自分に近い存在なんだと思う。自分自身が実は…っていうくらい。そう思えるだけで、人生が大きく変わってくるのかもしれない。

上級アメリカクエスト ⑥乗り切れた理由は?

先にも書いた通り、僕は渡米していきなり3年レベルのクラスから取り始めた。最初のタームのあるクラスでは6冊もテキストを扱っていた。もちろん全部は読む必要はなかったけど、アメリカ人学生もびっくりな量だった。中間テストと期末テストで、それぞれ2冊づつについてのエッセーの課題が出された。それぞれ10枚分のペーパーの課題だった。

10枚分のペーパーといえば、馴染みの薄いテーマについて書くのであれば、日本でも大変な量のはず。当然、英語で書くのだから、それだけ時間がかかる。大体、1タームに3クラスくらいは取らないといけないので、これくらいの課題が3クラス分、中間と期末で出される。1年目のテスト期間中は悪夢でしかなかった。思い出すだけで尿が出そうだ。

最初のタームを比較的いい成績で乗り切れたのは、クラスメートのお陰だと感じている。同じ専攻で、既に3年以上滞在していた日本人の留学生がいて、彼女の存在がとても心強かった。日本人とつるんでばかりでは英語力は伸びないのはわかるけど、自分にプラスになる人とは誰でも積極的に頼っていってもいいと思う。

彼女の他にも、既にその道で活躍している社会人学生がいて、彼も巻き込んで小さな学習サークルを結成した。サークルとして、教授を訪問したこともあった。基本的には、アメリカ人学生の中にはとけ込め切れずに友達は少なかったけど、最初のタームを彼らと一緒に乗り切れたのは大きかった。

また、先にも書いた通り、教授が熱心で授業が面白かったこと。テキストや課題の質も含めて、将来のキャリアに直結すると信じられるものばかりだった。在学中は、軍隊にいるのかと思えるほどきつく、洗脳かと思えるほど考え方を変えられたけど、これだけ自分の将来にプラスになると信じられる洗脳なら大歓迎だった。教育とは、ある意味、洗脳の一部なんだと思う。

それから、後で詳しく書く予定だけど、大学のオープンで便利な環境も大きなプラスだった。僕が入学したポートランド州立大学は、ダウンタウンの中に位置する都市大学で、鉄道が2路線通っていたり、サイクリストや歩行者が安全に移動出来る環境もあり、治安のよい環境で遊ぶ環境にも事欠かなかった。

最後に、仏法の実践がもたらした効果は大きかった。学習サークルのように、仏法を実践し世界中に広がる創価学会インターナショナル(SGI)のコミュニティとしてのサポートにも助けられた。その中でも大きかったのは、組織の中でリーダーシップがとれたこと。

自分の個人的なことをクリアする最前の方法は、意識したり関心を持つ範囲を自分を超えて出来るだけ大きく持つことだと思う。自分のことだけしか関心を持たなければ、当然、それ以上の成長は望めない。だけど、自分を超えて他者へまで関心を広げ、進んで責任を持つことによって、結果的に自分の悩みや苦しみが取るに足らなくなる程に自分を向上させられる。

この場合は、アメリカ人のグループに対して積極的に責任と義務を持つことにより、いつの間にか、多くの個人的な課題はクリア出来ていたということ。SGIの組織の中では、人材育成の一環で積極的にリーダーシップを任せる伝統がある。必ずしも能力があるから任せるのではなく、能力をつけるために任せるのだ。

また、仏法の自力本願でどこまでも楽観主義の思想は、どんな苦境に立たされても諦めない自分を作りあげた。必ずしも仏法である必要はないけど、そういった何が起きても大きくは動じない自分をキープ出来る深い思想や哲学は必須だと思う。自分への動機付けや固い決意は、そういった思想から生まれてくるものだと思う。

スティービー・ワンダーの体験から学べること

スティービー・ワンダーは、小さい頃に、学校で実験用のネズミが逃げ出した時に、盲目とはいえ、そん並外れた聴覚を見込まれて、先生に探すように頼まれたときから、新しい人生が始まったらしい。

障がい者だからと言って、役立たずだと決めつけてはいけない。それは道徳的にいけないのではなくて、自分たちが損をするから。スティービー・ワンダーが、小さいとき、先生にその並外れた聴覚を、才能として見いだされなかったら、あの偉大なミュージシャンは生まれていなかったかもしれない。

役立たずだと決めつけて放っておくことは、道徳的にというセンチメンタルなものでなく、自分たちにとって具体的な損失になる場合が確かにある。第一歩を踏み出すきっかけを与えてあげるだけで、大化けする可能性は十分ある。

あの黒澤明監督も、子供の頃は出来損ないでかなり差別されたりしていたらしいけど、ある先生が図画の才能を褒めた事がきっかけで最終的に伝説的な映画監督になったと聞いた。たった一言で、ここまで人間が変われるってことが現実にある。

今は、気が遠くなるほどこの世界は問題が山積していて絶望感を感じずにはいられないけど、こうやってお互いに可能性を信じ合い、拓き合っていければ、必ず世界は変わる。

苦悩とは無縁の天国を目指す?

どの宗教も、目的は幸せになることだと思うけど、何をもって幸せと考えるかは宗教によっても個人にとっても違うと思う。環境に依存する幸せと依存しない幸せとでは、根本的にゴールは違ったものになる。

例えば、苦悩とは無縁の天国のような環境に行きつくのが幸せなのか、それとも地獄のような環境でも幸せでいられる境涯にいきつくのが幸せなのか。

恐らく、普通に考えたら、多くの人は、最終的には苦悩とは無縁の天国のような環境に行きつきたいと思うだろう。多くの宗教が説く最終ゴールとは、そういう幸せの形なのだと思う。でも、少なくとも僕が信じる仏法は違う。釈迦や日蓮を含め、多くの行者が、環境的には全く逆の道を歩んだ。

釈迦も日蓮も、石を投げられ悪口を言われ、抑圧され、何度も殺されそうになった。そんな過酷な環境でも、変わらず彼らは幸せだったんだと思う。僕が目指すのはこの生命の境涯なんだ。だから、苦悩とは無縁の天国なようなところを目指そうとは思わない。

入信すれば、ほとんど努力せずに幸せになれるなんて、ただの胡散臭いだけの宗教だと思う。「最終地点まで到達すれば、苦悩とは無縁の世界にいける」なんていう宗教も胡散臭い。

僕が仏法を紹介するとしたら、「実践するにつれて苦悩は倍増し、場合によっては地獄のような苦悩が待っているけど、環境に依存しない本当の幸せを掴める」と紹介する。僕は、もうちょっとソフトに言われたけど、その通りの道を歩んでいる。

この一生のうちに成仏出来る?

仏法って、生命の可能性を突き詰めた教えだと思う。「成仏」という最終目的を果たすために必要なものはすべて保持しており、それを信じ、あらゆる実践を通して引き出していく。それだけで、この一生で生きている間に成仏に行き着くことが可能ということ。

仏法には、輪廻の経験が薄くても、過去世の罪業がどんなに深くても、逆転満塁ホームランのようなものがあり、この一生で生きている間に成仏することが可能ということ。都合が良すぎる話に聞こえるかもしれないけど、僕たちが持つ生命にそれだけの可能性がないとも言い切れないんだ。

逆に、輪廻の経験が薄かったり、過去世や現在世での罪業が深かったりするだけで、この一生は経験のためとか罪償いのために厳しく辛い思いをして費やさないといけない、というような教えは、生命の本来の可能性への軽視である可能性がある。

「成仏」っていうのは、死ぬことではないし、死んでからでないと出来ないものでもない。成仏したからといって、苦悩とは無縁の楽園が待っている訳でもないし、逆に信じられないほどの過酷な迫害が待っている可能性もある。成仏とは、環境に影響されない絶対的幸福境涯に到達することなんだと思う。

「プライド」についての関連ツイート

僕たちは、多かれ少なかれ、他人から分析されることに抵抗感を持つものだと思う。僕にもある。抵抗感が強い人は、プライドが高い割に自信が無い人なのかもしれない。 

「プライド」って「見栄」にも十分なり得るな。プライドを持つことがプラスに働く場合ってどんなときだろう? 

プライドについてちょっと調べてみたところ、プライドを持つことが「百害あって一利無し」と表現しているサイトを見つけました。 ow.ly/4XZ1E 

ポートランドには「あんたホームレスになるような人じゃないだろ」って人が、普通にホームレスになって、ストリートでお金を乞う。それも堂々と後ろめたさの微塵もなく。彼らからはプライドなんてほとんど感じられないんだけど、それだけに余裕さえ感じられるんだよね。 

確かに、「プライドを持て」って言われることがある。そういう人は、どういう意図でそう言うのだろうか?それに、プライドを持とうとする動機って一体何なのだろうか? 

プライドを持つ動機は、自分を鼓舞するため?だとしたら、どんな手段で? 

「プライドが高いのに自信がない人が引きこもりになりやすい」ということを聞いたことがある。プライドが高いばかりに、下手すると、人前に出れなくなってしまうこともあると思う。 

現代の日本人のプライドの高さは、ポートランドのフードカート(屋台)の文化にも現れているかも。ポートランドにはフードカートがもう600以上あるらしいけど、日本食専門店たった一件。屋台ごときでは社会的に認められないと思っているところがあるかも。 

プライドの高さっていうのは、社会の中で認められる難易度を高めるものなのかもしれない。プライドの高さに比例して自信がなければ、社会の中で居づらくなる。プライドを捨てて社会で認められる難易度を低めれば、ぎすぎすしたものが緩和されて、より多くの人が居場所を見つけられる社会になると思う。 

アドバイスをするのに、「プライドを持て」と言うのと、「プライドを捨てろ」というのと、いろんな視点から考えてみたら、どちらが相手のためになるのだろうか。「場合による」という結論になると思うけど… 

「地球市民」とか「人間」としてのプライドだったら大いに持つべきだと思うな。スポーツマンシップのような潔い公正さを持てない状態で、プライドを持ってしまうことに、問題があるような気がする。 

「プライドを持つ」ということが価値的で建設的に生きるのは、人間として普遍的な権利を主張する場合だけだと思う。例えば、社会的に不利な立場にあるグループが人間の尊厳としてプライドを持つ場合で、あるグループが他のグループより優れていることを示すためのプライドではない。 

自分だけが優れているという優越感ではなく、自分を含めた人類全体の、あるいは生き物全体の可能性や尊厳に誇りを持てるということ。

「人間・池田大作:私の見た素顔」

「人間 池田大作:私の見た素顔」という本を読んだ。この本は、木村恵子さんという学会員ではない人が、自身がプロデューサーとして作成したアメリカの放送局向けのドキュメンタリーTV番組「人間 池田大作」制作を通して綴った本。学会員という立場からなのかもだけど、とても面白かった。

学会員じゃない人が書いたと言っても、創価学会側からカネを積まれて書いたんじゃないか?と疑う人がいるかもしれないけど、僕はその辺は分からない。ただ、池田名誉会長の足跡上にいる結構な数の関係する国家要人の通訳を勤めた人や識者たちにインタビューをしたようだ。

木村さんは、子育てが一段落した30代後半に渡米・単身赴任し、元来の夢だったマスコミの仕事を再開したようだ。その時は創価学会のことを良く知らず、むしろネガティブな感情があったが、大家さんが持っていた池田名誉会長著「私の世界交友録」を読んで感激し、その本の内容の朗読番組をラジオで始めた。

「人間 池田大作」制作の上で、木村さんたちクルーには、「事実を曲げないこと、池田氏を必要以上に言葉でもち上げないこと、ことさら大げさに表現しないこと」というポリシーがあった。クルーの中には、学会員は数人で、むしろ、学会をよく知らない・嫌いというメンバーの方が多かったとのこと。

「私の世界交友録」に書いてあるような、池田名誉会長と世界の識者たちとの対談が、カネで買われたものだと疑う人がいるそうだけど、ラジオの朗読番組制作の上で、木村さんが対談相手の識者たちにラジオで扱うための承諾を求めると、皆快諾してくれ、庶民のアパートに彼らから手紙やFAXが沢山届いたらしい。

1972年に実現した日中国交正常化についても、一般的には当時首相だった田中角栄や竹入議員が立役者だと知られているが、創価学会側は池田名誉会長の民間外交が要だったと主張していて、事実が確かではないことから、木村さんたちは、中国やロシアに行って、直接、現地の関係者にインタビューしたとのこと。

探してみたら、学会員ではない木村恵子さんがプロデュースした、アメリカで放映されたドキュメンタリー番組「人間 池田大作」が、ここで見れるようです。 ow.ly/96kMs ニコニコ動画の映像ですが、途切れることなく流れている数々の汚いコメントの嵐を見てみてください。

創価学会に懐疑的な人は、木村恵子さんみたいに徹底的に調べて、関係する人にインタビューして、疑問点は自分の足でクリアにしていけばいいと思う。創価学会に都合の悪い事でも良い事でも、事実が多くの人に伝わることは、僕の願いでもある。

「神」とは「働き」に過ぎない

確かに、キリスト教と仏法では、得に「神」というものに対して大きく教えが違う。キリスト教ではキリスト自体が絶対的な神となっているけど、仏法でいう神(諸天善人)とは「働き」に過ぎず、仏の生命を宿している僕たち人間(仏)が、神というその働きを興す立場にある。

「神」より、僕ら自身である「仏」の方がずっと尊く、「仏が神をコントロール出来る立場」という考え方。人生は神によって宿命付けられているわけではなく、人間が神という働きを興して宿命を転換することが出来るということ。本当のところは分からないけど、後者の方が自分に得だと思うからそう信じている。

昔は「宗教=絶対的な神がいる」と思ってたけど、仏法を実践し始めてから、そういう固定観念があることにすごく違和感を感じるようになった。その固定観念を打破しない限り、仏法は本当の意味で理解出来ないと思う。 

イエス•キリストは、仏法でいう「菩薩」や「仏」の生命境涯を体現した人で、歴史上で最も偉大な人物であることは間違いないと思う。だけど、彼を「絶対的な神」としてしまうところに、教えとしてのキリスト教の危うさがある。恐らく、それはキリストの意思ではない。 

「神」に対する捉え方で、生き方が大きく変わると思う。「絶対的な神」がいる前提でいれば、生身の人間ではコントロール出来ない「神」や「運命」などの超えられない壁が立ちはだかることになる。その点、仏法には、(働きとしての)「神」や「宿命」をも人間次第で動かせたり変えたり出来ると捉える。 

宗教嫌いな人が多いのは、特定の「絶対的な神」を信じるのが嫌だからなんじゃないかな。僕もそれだったら嫌だ。でも、宗教はそれだけじゃない。 

人によって別々の「絶対的な神」がいれば、そりゃ争いの種になることは間違いない。現実、そうなってる。だけど、帰依する対象を、「無限の可能性を秘めた尊極の生命」とすれば、争いは生まれないはず。

自分なりに訓練していること

こっちのSGIで、もうおばあちゃんなんだけどとってもリスペクトするメンバーにもらえたコメントの中に、僕は「人をジャッジしない」というのがあった。 旦那さんはSGIが嫌いで、メンバーが家に来ても顔を出さないけど、僕が来た時にはヌ~っと顔を出すのが不思議だったと。

僕は、個人としてみたら嫌いな人はいるし、いろいろジャッジするけど、少なくとも、どんな組織に所属してるかとか、社会的なステータスがどうかと かで一括りにして人を判断しないようには注意している。「訓練」というレベルで実践しているので、それなりに体に染み付いてきているとは思う。

訓練している事:一括りにせずにあくまで個人の人間性で判断する。間違いを素直に認める。どんなに卑劣でアンフェアなことをされても、あくまで誠 実でフェアでい続ける。自他ともの利益を実現する手段をひねり出す。気づかれないような陰の努力を大事にする。そういったことを自分の利益に結びつける。