「平和・無関心」カテゴリーアーカイブ

舛添さんへの集団リンチに違和感を覚える投稿が増えてきたところで…

舛添さん、ついに辞職ですか…

舛添さんを擁護する気はさらさらないけど、この「集団リンチ」以外の何物でもない状況に違和感を感じてた。

そんな状況に対して問題提起する記事や投稿が出始めたとこだった。

不謹慎だと感じる人もいるかもしれないけど、米フロリダで起きた銃乱射事件と同じくらい、日本の有名人や政治家に対して行われている集団リンチは恐ろしいものだと思う。

何て言うか、例えれば、前者は「監禁」のようなもので、だとしたら後者は「軟禁」に当たるのではないか。物理的な恐怖より、精神的な恐怖の方が根が深いと思う。

僕の父親は、パチンコ屋に行く時にも家族の共用車を使う。自分でガソリン代を払うのが勿体ないからだそうだ。その父親のセコさと傲慢さのために、僕は自分の車を買わざるを得なくなった。

また、自分の買いたい食料品を勝手に買ってきて、一円も残らず母親に請求する。あたかも当然のように。僕だったら、自分で出して喜んで家族に分けるけどね。

そのセコさは舛添さんと同質。多分、舛添さんの世代特有のセコさなんだと思う。そんな父親はかなりの勢いでこの集団リンチに参加している。

自分を棚に上げて集団リンチに参加してしまえるほど恐ろしい人はいないかもしれない。

米フロリダで起きた銃乱射事件の報道を見て思ったこと

このフロリダで起きた無差別銃乱射事件で、100人以上が殺傷されてしまった。 犯人を責めるのは簡単だけど、こういった事件を二度と起こさないためには、やらなきゃいけないことが他にも確実にある。

このナイトクラブはLGBTの人たちの憩いの場でもあったらしいから、あえてそのクラブを狙ったのは同性愛者に対するヘイトによるテロ行為の可能性が高い。(犯人自信がゲイだったという情報もあるけど)

特定の人種や民族、宗教などに対してはもちろん、同性愛者やテロリスト、在日外国人など、一括りにして悪く言ったり憎んでいるグループがあるとしたら、僕たち一人ひとりが改めてないといけないと思う。 そこにはいろんな人がいて、嫌いな人もいるかもしれないけど、好きになれる人も必ずいる。

あくまで対「個人」で見るべきで、集団に対して先入観や偏見を持つべきではない。

逆に、マイノリティだからと言って、かわいそうだとか手厚い対応をしなきゃいけないとか、必ずしも思う必要はない。 嫌いな人は嫌いなままでいいと思うし、ひどいことをされたら怒ったり非難すればいい。

そんなことをまとめた記事を書いたことがあった。

「ゲイ」について考えてみた

 

【4日目】九州目指してサイクリングツアー:同月にオバマ大統領が広島・岩国を訪れるとは夢にも思わず…

前日の強風・向かい風により電車移動+観光の味を占めてしまった僕は、この日も早朝から観光モードで福山ー広島を輪行し、広島にて早速、観光サイクリングを開始した。

広島城ー原爆死没者慰霊碑 ー原爆ドームを回り、決して遠くない過去の悲劇に思いを馳せた。

そして、この時は全く予想だにもしなかったことに、同じ月にアメリカのオバマ大統領が、アメリカの現職の大統領として初めて、この広島を訪れることになる。

広島からはとりあえず、青春18きっぷでよく電車を乗り換えていた岩国まで自転車で行くことに。途中、宮島へのフェリー乗り場付近で昼食をとり、そのまま岩国までサイクリング。

岩国駅から輪行しようと駅の改札近くまで行くと、何やら改札からバス乗り場へ向かうかなりの人の流れを確認。何が起きているのかしばらく分からなかったけど、どうやら岩国基地が1日解放する日(フレンドシップデー)だったらしく、基地で航空ショーなどを見に行く人の流れだったようだ。

とりあえず、こんな機会はなかなかないので、予定を変更して基地に向かった。(自転車で)

 

 

正直、基地とか武器とか戦闘機とか戦車とか好きではないんだけど、広大な土地に信じられないほど多くの人がいて、フレンドシップデーというだけあって、日本人とアメリカ軍の友好を深める大事な日だった。

そして、驚いたことに、同じ月に、オバマ大統領がこの岩国基地も訪れることになるのだ。

それだけに、オバマ大統領の岩国ー広島訪問は僕にとってとても感慨深いものになった。

岩国基地を後にして、岩国周辺からは輪行は無理(フレンドシップデーの為に電車は相当の混雑が予想されるため)だと考え、もう少し自転車を走らせることにした。

結局、広島から山口県の柳井港駅まで約70kmをサイクリング。海岸沿いの気持ち良いサイクリングだった。

柳井港駅から輪行。この時点でもフレンドシップデーのため山陽本線の車内は若干混雑していた。

終点の下関で下車。駅前のホテルにチェックインし、4日目を終えた。

「内向的であること」が見直されてきてる⁉︎

僕はとても内向的な人間です。

ブログなどを見れば分かると思うんですが、物事を難しく考えるし、独自の考えや思ったことをストレートに言って周りの空気を乱すことも多々あります。そして文章が長い。。

今の時代は特に、難しいことを考えずに気楽に人と繋がれる社交性の高い人の方が明らかに人気がありますよね。SNSの世界で言えば、多くの人に囲まれてたくさんいいねやコメントがもらえる「リア充」な人。

僕は内向的な人間だけど、かなり社交的な人間でもあります。それでも、内向的な面を見せると、人は触れようとしないし、寄ってはこないんです。

明らかに、内向的な人と付き合うことは「リスク」だとされる社会なのだと思います。「内向的である事」が一種の障害であるように受け止められているのかもしれません。

もしかしたら、SNSで「リア充」な人も、このリスクを恐れて内向的な面を隠して振舞っている人もいるかもしれません。「KY」とかの「空気」が「個人」より優先されるような時代なのかもしれません。
しかし、「内向的であること」が見直される動きもあります。

内向的であることは全然悪いことではないはずです。むしろ、この記事やスピーチに現れているような良い面もたくさんあるし、もしかしたら、内向的な人が過小評価され排除されていることが、世の中が生きにくくなっている原因になっているかもしれません。

最近起きたファンによる大学生アイドル殺傷事件の犯人も、その内向的な側面をポジティブに受け止め、その能力を良い方向に向けてくれる人が周りにいたら、もしかしたら社会に大きな価値を生む人材になっていたかもしれません。

「内向的である事」のポジティブな側面が見直され、人と人とのつながりの質がより高まるといいなと思います。

異色の経歴を持つ元ヤクザのKEIさんが平塚で悩める子どもを救う活動を開始!

〜平塚市民プレスに2014年5月2日に投稿した記事の転載です〜

米刑務所に10年服役したという元ヤクザのKEIさんが、悩める子供のための組織「ホーミー・マリン・クラブ」を発足という東スポの記事です。

こういったニュースを3D動画でYoutubeに載せてる人もいるんですね。(字を読むのが面倒という人はこちらの映像でどうぞ!)

平塚市民プレスでこの記事を紹介したのは、KEIさんの活動の拠点が平塚だからです。
僕も東スポの記事を見ただけで、KEIさんのことも彼の活動のこともまだよく知りません。
やっぱり過去の経歴から近寄りがたく感じてしまうんですが、同じ平塚市民として活動を応援したいと思ってます。

「ホーミー・マリン・クラブ」やKEIさんの経営するチカーノ・ファッションの店などのサイトの情報を載せておきます。

HOMIE Marine CLUB – Facebook www.facebook.com/homiemarineclub

HOMIE BLOG – (ホーミーブログ) blog.livedoor.jp/homie_japan/archives/8334777.html

HOMIE/ホーミー/チカーノファッション・タトゥー/CHICANO TATOO STUDIO www.homie-japan.com/

HOMIE BRANDからKEI著 新刊書籍「アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人」のお知らせ homie-japan.com/book/

日本とポートランドの「温度差」について

『日本は「溶け込めない人間」に対して、非常に冷たい社会…』

いじめの件数は増え続けています。

文部省の調べによると、小・中・高等学校及び特別支援学校におけるいじめの認知件数は18万8,057件で、前年度より、2,254件増加。いじめを認知した学校の割合は、全学校の56.5%でした。

なぜ、こんなにいじめが多いのでしょう?

また、日本は自殺大国と呼ばれ、自殺率は先進国でもダントツで高く、全体の世代の自殺率は減少傾向にあるにもかかわらず、若年層(15~24歳)の自殺率は欧米諸国の傾向に逆行して増えているそうです。

また、若年層の死亡原因の第一位が自殺で、このような国は他にないそうです。

ポートランドと日本、どちらにも住んだ経験から、その温度差をすごく感じます。

足の悪い人でも電動車いすで街中を自立して走り周り、肘から片腕のない人でもロックスターに成りきって堂々と路上パフォーマンスする。LGBTなどの弱い立場の人たちも魅力があり人気者が多かった。僕のポートランド滞在中は市長がゲイだった。

ポートランドにいるときに高校生以下の子どもたちに聞いてみた感じてでは、アーティスト(アナログ、デジタル含めた芸術家)になるっていう子が多かったことに驚いた。日本の多くの家庭だと即座に否定されるかもしれない。アーティストが活躍できる土壌があり、親たちにも子どもの意思を尊重する度量があるように感じた。

また、何より、ポートランドでは「Keep Portland Weird」って言って、自分たちの街がずっと変であることを望んでいる。変わってる人ばかりだし、いちいちそんな人たちを白い目で見るような人もいない。だから「変わってるから」とか「みんなと違うから」とかで、「自分はここにいちゃいけないんだ」なんて感じる人は多分いない。

日本とポートランドで比較しても、これだけ違う。この違いが結果に表れていると思う。

問題の根が深すぎて、「だからこうしよう」というような提案も今はないんだけど、とりあえず日本とポートランドを比較し、その「温度差」を示しておきたかった。

こんなに美しく平和だったシリアがなぜ…

2008年からのアメリカ留学中にシリア人留学生と話したとき、確かに、シリアは美しく平和な国だと言っていた。

こんなに素晴らしい土地だったのか…

その国で、街は廃墟と化し、遺跡は破壊され、難民は増え続け、今日、連続爆弾テロで130人以上が死亡し、数百人の負傷者が出てしまったなんて、一体どうやったら信じられるんだろう???

 

 

「ハードコアな音楽は気分を鎮めて穏やかにする」という驚きの研究結果について

「ハードコアな音楽はハードコアな行動を引き起こす」

長らく疑うこともなくそう信じられてきたんだと思いますが、オーストラリアのクイーンズランド大学の研究で、全く逆の結論が導き出されたらしいです。

普段からエクストリームな音楽(ハードコア、メタル、パンク、エモ、スクリーモ)を聴く18歳〜34歳の39人が実験に参加したそうです。そこで、わざと怒りを煽るような状況を作り出し、苛立った状態でエクストリームな音楽がどのような反応を引き起こすかを見る実験。

結果は、敵意、苛立ち、ストレスのレベルが下がり、驚いたことに、インスピレーションのレベルが上がったそうです。エクストリームな音楽がそういったネガティブな感情を吸収してくれて、おまけにインスピレーションを与えてくれるんでしょうか?

以前、北欧のノルウェーのナショナルチャートで、Dimmu Borgirというブラックメタルバンドのアルバムが1位になったという衝撃的な出来事を記事にしました。

ノルウェーのすごいところ

こんな見た目的にも音楽的にも過激なバンドがナショナルチャートのトップになってしまう国は治安が崩壊しているんじゃないの?って感じる人も多いと思います。

ただ、記事にも書いた通り、ノルウェーの人々は自然を愛し、質素な暮らしを好む国民性らしいです。もしかしたら、ノルウェーの人々は、そういった音楽を許容することで穏やかさを保てるということを本能的に知っているのかもしれません。

そういうぼくも、高校の頃にメタル道をほぼ極め、大学の頃にはかなりアップライジングなニュースクールハードコアシーンでバンド活動してました。

こんなアンダーグラウンドな音楽シーンでバンド活動してたんだなぁ

音楽を「芸術」として捉えて聴く人と「ファッション」として利用するとでは違うと思います。また、普通の人がエクストリームな音楽を聴くと、拒否反応が出るか、ノイズにしか聴こえないかもしれません。

ここからは個人的な仮説なんですが、本当の「癒し」を求めるなら、意識的に求めがちな「ヒーリング音楽」のようなものでは不十分。時には、拒否反応が出るくらいの音楽にも向き合う必要が出てくるかもしれません。要は自分の許容範囲内のことだけやっていては本当の癒しは得られないということ。

以前、脳科学者の茂木健一郎さんの「癒やしのヒント」という連続ツイートから感じたことを書きました。関連するので載せておきます。

「不便さ」や「サバイバル」も”癒やし”になる?

長年、エクストリームな音楽を聴いてきたぼくでももちろんカッとなって怒り狂うことはあります。ただ、暴力を振るったり暴力的な手段に出たことは、少なくともそういう音楽を聴き始めた高校生の時以来ありません。今では、そんな音楽を聴くなんて夢にも思わせないほど穏やかです。

多分、この研究結果の通りなんだと思います。ぼくの実体験からも、この実験結果は信ぴょう性が高いと言えると思います。

壮絶なスケールの「ベッキー叩き」から垣間見えた日本の悍ましい未来

今回のベッキーさんを巡る騒動の真相はわからないけど、日本全体で凄まじいスケールで陰湿なイジメが起きているのは間違いない。

イジメの恐ろしいところは、一人一人は軽い気持ちでも、受ける方にはその人数分の重みを伴うところ。人数が増えれば増えるほど、受ける側に負担がのしかかることになる。

長谷川豊さんの言う『ベッキー叩きをしている日本人は「戦争をするタイプの人間」』というのはすごく分かる。自分のいる場所の治安度によって行動の残虐度が変わる人たちなんだと思う。

そういう人たちがISの活動する地域にいたとしたら…きっと、文字通り、好き嫌いとか嫉妬とかのレベルで、気に入らない対象を「血祭り」に上げてるかもしれない。血みどろの。

ベッキーさんだから特別に言っている訳じゃなく、元県議の野々村竜太郎さんの時も、バッシングが明らかに行き過ぎだと言っていた。二人とも、命に関わるくらい追い詰められている(いた)はず。

人の命に関わることを消費のネタにする社会は野蛮でしかない。こういった傾向をそのまま放っておくと、日本の治安が悪化するにつれて、冗談ではとても済まされないことが多発するようになると思う。

このベッキーさんの騒動でモロにそのレベルだと思うんだけど…

【読書6】21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ(佐々木俊尚著)を読んで

この本は、日本式の「リベラル」勢力や本場のリベラリズム、従来のコミュニタリアニズムの限界を見越し、数々の大問題を抱える「日本」という航空機が、現実的で体温の感じられるような「不時着点としての第三の可能性」を探る論考だ。

まず驚くのが、大江健三郎氏、坂本龍一氏、内田樹氏、山本太郎氏など、錚々たるメンツに対して、ある意味、完全にケンカを売っている。理由は、彼らの「リベラル」的な運動は、政治哲学によるものではなく、「反権力」という「立ち位置」に過ぎないというもの。

では、本来のリベラルとはどういうものか?この本には、「現代のリベラルの基本理念」として、以下のように書かれている。

人々には生まれながらにして自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公正さを取り除かなければならない

今、「戦争反対」や「徴兵制反対」を主張することは、果たして「リベラル」といえるのだろうか?

僕は、2007年に「日本の平和憲法が機能する条件」というブログ記事を書いた。一部を以下に抜粋する。

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「戦争」自体に、良いも悪いもないと僕は思ってます。

過去の歴史を紐解いてみれば、戦争を起こさなければならなかった場面はいくらでもあったのだと思います。

コスタリカが直面した1948年の内戦もそうです。

当時、腐敗を極めていたカルデロン政権に言論弾圧を受け、メキシコに追放されたフィゲーレスが、社会民主党を組んで政権に挑み、選挙無効などの独裁的な手段に出る政権に対して武装発起しました。
内戦は6ヶ月ほどで終結し、約2000人の犠牲と引き換えに、コスタリカは、民主主義と軍隊を廃止する平和憲法を手に入れました。

僕は、この戦争については、肯定も否定も出来ません。

ただ言えることは、この約2000人の犠牲の責任は、コスタリカがこんなにもぎりぎりの選択を迫られるような状況になるまで放っておいた世界中の人々にあるということです。
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8年経った今でも同じ考えを持っていて、これだけ絶望的に入り組んでしまった世界情勢下では、日本が武力による支援を検討すべき国や地域があってもおかしくないと思っている。そんな必要性を生んでしまっているのは、紛れもなく「無関心だった僕たち」「十分な働きかけをしてこなかった私たち」の責任なのだ。

まずはその反省を共通の出発点として議論を始めないといけない。にもかかわらず、自分を棚上げして「自分たち(正義)」と「権力(悪)」という構図を作り上げるに終始するのであれば、確かに、それは政治哲学というより、「立ち位置」に過ぎないかもしれない。立ち位置にこだわっている以上、本物の変革はあり得ない。

そもそも、民主主義国家では、権力者は私たち「国民」だ。だとすると、味方も「私たち」であり、敵も「私たち」であるはず。本当に向き合うべきは、自分たちが(間接的にでも)選んだ政治家や政府ではなく、あくまで「私たち」であるべき。そうだとしたら、働きかける先が政治家や政府だけになってしまうのは、本末転倒なのかもしれない。

日本の「リベラル」勢力は、「独裁主義」と聞いただけでアレルギー反応を示し、無条件に「悪」というレッテルを張ってしまうかもしれない。しかし、この本では、中国やシンガポールの例を出し、独裁主義についての捉え方やイメージの再構築を提案している。

以前、今一度、「国民主権」について考えてみたいというブログ記事で、民主主義と独裁主義について以下のように書いた。

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「民主主義」というかけがえの無い自由を得ることと引き換えに、僕たちは、実はとんでもない責任を背負っていることになる。民主主義は、機能させれば最高の結果に行きつくことが出来る。その代わりに、機能させられなければ、独裁主義よりひどい結果になり得る
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このジレンマは、僕たちが本当に求めている自由とはどちらなのか?という下記の究極の選択肢に現れている。

  • 生存は保証されていないが、自由
  • 自由ではないが、生存は保証されている

また、この本では、従来の「リベラリズム」と「コミュニタリアニズム」の限界にも切り込み、第三の方向性を模索している。

リベラリズムは、「普遍的なもの」「理想的な個人」を目指すもの。ただし、これは本当は存在しない幻想だとしている。「ものごとはたいていグレーであり、グレーであることをマネジメントするのが大切である」という考え方や、ヨーロッパ的な価値観が実は万能ではなかったということからそう断じている。

コミュニタリアニズムは、共同体に参加することに価値があると考え「参加」を求めるもの。ただし、内と外のあいだに壁をつくって、結果的に外側(参加しない人)を排除してしまう。共同体内の結束や忠誠という文化に耐えられる人は手厚く守られるが、その文化についていけない人は「自己責任」という荒波に放り出されることになる。

この二つの課題点をクリアする第三の方向として、筆者は「ネットワーク共同体」という概念を提案している。その概念について、筆者は以下のように表現している。

ネットワーク共同体における人と人の「線」は、ひとつではない。さまざまな線がさまざまな太さで、さまざまな人たちを結びつけている。そこには多層化されたレイヤーがあり、さまざまなレイヤーのさまざまな線上に人々がいる。民族や国家、地域など多層・多元化された線によって立体的に構成されたオープンな三次元共同体なのだ。

これは、従来の日本の「ムラ」のような共同体とは一線を画していて、インターネット上のSNSのような、人と人とのつながりがゆるく広く多層的で柔軟に張り巡らされるような共同体だと理解している。内と外との境界線が極めて曖昧で、右や左などの両極端はなくなり、むしろ大半がマイノリティーに属し、それが当然という認識になる。

当然、両極端が生まれなければ大きな対立は生まれないし、マジョリティが存在しなければ排除は行われない。多層化・多次元化され境界が曖昧な共同体構造では、意識しなくても参加することもあり、いつの間にか当事者性を持って行動しているということもあり得るだろう。このような社会構造化であれば、自由や富を手放す代わりに、例外なくみんなが最低限の豊かさを享受して生きていけるのかもしれない。

気が遠くなるほど多くの大問題を抱える日本社会において、著者が見極めようとしているのは、あくまで現実的で体温の感じられる「不時着点」だ。時には妥協も必要かもしれないし、抗議活動の他にもやるべきことは確実にある。僕たちには、足を引っ張り合っている暇などどこにもない。

僕たちが「根本的に何を目指すべきなのか?」について課題点を整理し、その原点に立ち返る必要性を痛感させられる一書だ。