僕の理想とする社会

僕の理想とする社会とは、その社会にいる一人一人が、パフォーマンスを最大限に発揮し、それぞれの役割をしっかりと果たすことによって成り立つ社会。

言い換えると、この社会は、一人でも欠けると完全に機能しない社会です。
それぞれが社会に必要だと思うことを独自に始め、その社会に足りない機能を補える社会。

例えば、パズルを完成させる為に、すべてのピースが適切な形で適切な場所に収まる必要がありますよね。
同じように、人間社会も、一人一人が、必要なパフォーマンスを適切な場所で発揮することによってはじめて成り立つのだと僕は思います。

お金の流通はあってもいいと思うけど、もはやお金という機能なしでも十分持続可能な社会だと思います。
経済のシステムも社会のシステムも、その地域独自のものとして、地域単位で完結します。
それだけ、人間一人一人のパフォーマンスの度合いが及ぼす社会への影響は計り知れないのだと僕は思います。

このパズルが完成すると、その土地独特で唯一の芸術が生まれます。
それぞれが、色鮮やかな色彩で、心温まる絵になるはずです。
小さな絵かもしれないけど、世界には、一つとして同じものがない芸術的な絵が無数に存在することになります。

一人一人の可能性が生み出す多様性は、本来、想像も出来ないくらい豊かなものなんだと思います。
その多様性は、独自の文化となって、それぞれの地域の財産になります。

僕はこれが理想に過ぎないとも、現実離れした実現不可能な社会だとも思いません。
ただ、現状の世界規模の社会構造を考えると、とてつもなく難しいことだとは思います。

現状の社会構造は、僕のこの理想からはかけ離れています。

グローバリゼーションは、それぞれの地域で培ってきた文化を、世界規模で、ことごとく破壊しています。
まるでブルドーザーで豊かな自然が切り崩され、平らに均されるように、地球という大きな塊で、何もかもが均一になり初めています。

アフリカ人もアジア人もヨーロッパ人もアメリカ大陸の人々も、同じような服装をして、同じような暮らしを望み、同じような価値観をもって同じような物を欲しがり、同じような生活パターンで同じような仕事をして、同じように生きようとする。

この場合のパズルは、穴だらけな上に、モノクロで単調で境界線がなく、地球という巨大な規模でただだらだらと続いていく。
まるで、色とりどりで豊かな芸術品を無残に破壊して、どこからともなくやってきた誰かの面白みのない価値観にあわせて、平均的なものと取り替えるようなものです。

これは、いつの時代も根本であるべき人間が、その価値観の奴隷になっているからだと思います。
コスト削減と称して人間排除をしている大企業がその象徴だと思います。
僕は今日本にいないので、なかなか実感するのが難しいのですが、日本では、大企業による派遣ぶった切りが起こっているそうですね。

パズルに例えて、これは、掛け替えの無いピースであるべき人間が、経済や社会システムから排除されるという本末転倒な流れです。
貧しかったり、肌の色が違ったり、障害を持っていたり、一見能力が無いと見なされただけで、経済や社会システムから除外しようとする。
一人一人の人間の可能性を信じることをしない野蛮な思想がそうさせているのだと思います。

でも、この危機的状況は、ある意味、チャンスにも成り得ると僕は思います。
社会の中での溝が深ければ深いほど、その反動も強いものだと思うからです。

大企業におんぶに抱っこの時代は終わり、民衆の手で自ら社会を立て直す必要に迫られている時です。
ニュー・オーリンズも、カトリーナがあったからこそ、政治的にも社会的公正の素晴らしいポリシーを持つまでになれたのだと思います。

その為には、一人一人が、グローバリゼーションやビッグビジネスの波動に流されず、自分のいる場所で必要なことをするべきです。
例外なく、すべての人が必要なんです。

僕は、幸い、仏法に出会うことによって、僕を含めたすべての人間の無限の可能性に目を向けられるようになりました。
でも、そうでなくても、例えば、貧しい人が、経済システム再建のキーパーソンになることを証明した事例は沢山あります。

その一つは、バングラデシュのグラミン銀行です。
グラミン銀行は、マイクロ・クレジットという手法で、微小なローンを貧しい人に貸すことにより、国内の貧しい人々の一人立ちを促してきました。
一人一人の立ち上げるビジネスは小さいかもしれないけど、今や、バングラデシュでは、考えられないほど多様な職種が存在し、バングラデシュの社会を支えています。
ただ、道端で物乞いをすることしか出来なかった人々が、バングラデシュ社会の再建の役割をしっかり担っているのです。
この流れが順調に続けば、やがて、貧しかった無数のバングラデシュ人が、バングラデシュ社会の主役になる日が必ず来ます。

また、大学のクラスで読んだ記事で、郊外化によって荒廃したアメリカの都市のダウンタウンの復興は、貧しい移民やスラムにいる貧しい人を活かすことが鍵であり、その中で彼らが主役にも成り得るということが書いてありました。

以前、「スラム化」という日記にも書いた通り、日本には、一般的な汚いイメージのスラムももちろんあるし、そうでなくても一般的に僕らの生活レベルで身近なところでスラムと呼べる場所があります。
それは、ネットカフェや漫画喫茶です。
清潔で快適そうに見えても、そこには、そこに逃げ込むしか選択肢がない人が沢山います。
彼らの多くは、パフォーマンスを発揮したいと思っていても発揮できない。

一つは、日本の社会構造がそうさせています。
日本の一般的な企業は、住所が無い者はほとんどの場合で雇いませんよね。
ただでさえ仕事が無いのに、住所が無ければほとんど絶望的です。
なので、状況が好転するまで、宿泊費の安いネットカフェに逃げ込むしかないのです。

ネットカフェの費用も払えない人はもっと悲惨です。
路上で生活するしかないのです。
厳しい冬を越せずに凍死してしまう人も毎年います。
豊かに見えるこの日本でも、餓死してしまう人も毎年何人もいるんです。

こういった日本の社会構造を政治的に改革することは絶対に必要なのですが、その前に今すぐ危機的な状況に陥っている人が出来ることがあると思うんです。
それは、大き目の企業の雇用を求めるのではなく、今いる地域ベースの小さなビジネスを回り、まずは無償で働き、住み込める場所を歩いて探すんです。
地域ベースの小さなビジネスの多くが苦境に陥っていて、苦境に陥っている者同士が助け合うことによって、状況が好転する可能性が生まれると思うんです。

その土地の経済を安定させ、本当の意味で雇用を創出するには、その地域ベースの無数にある小さなビジネスが元気になる必要があります。
だから、長い目で見ても、ただネットカフェで本来のパフォーマンスを発揮出来ずにいる人達が、それぞれの地域の復興のキーパーソンになることで、より自分たちのパフォーマンスを発揮出来やすい環境を手に出来るはずです。
その社会を構成する一人一人のパフォーマンスが高ければ高いほど、それに比例して、その社会は反映するものだと思います。

しかも、これは、僕の理想とする社会を実現する道筋でもあります。

今この瞬間にも苦しんでいる人が沢山いるのに、今すぐにクリティカルな行動に移せないことに本当にもどかしさを感じるのですが、毎日毎日が着実に前進の一日であるように、過ごしていくのみです。

【参考】
スラム化
mixi.jp/view_diary.pl?id=967109111&owner_id=2247284

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