変われば変わるほど変わらない人

「変われば変わるほど変わらない人」

何だか、これだけ聞くと矛盾し過ぎていて笑っちゃいそうですよね。

これは、以前、ある新聞に掲載された斉藤環という医学博士の『現代における「人間の成長」』という記事に載っていた言葉なんですが、個人的に、すごく奥深い表現だと思いました。
何故かというと、こういったことが、何で矛盾しているようにしか聞こえないかは、例えば、三次元の世界で二次元的にしか見ていないようなものだからかなとふと思ったからです。

記事には、人々が好む物語の形として、人々の「成長」の物語から、最近では周りの環境への「適応」の物語にシフトしていることが紹介されていました。

果たして、「変わらない人」とは、「適応」の人なのでしょうか、それとも「成長」の人のことを言うのでしょうか?

確かに、最近では「空気を読め」という風潮が強いですよね。
そんなに最近の物語を読んでいる訳ではないので分からないんですが、確かに、物語の中に「成長」とか「成熟」のような要素を入れることが時代遅れみたいな風潮も感じます。

この場合の「成長」と「適応」のそれぞれの考え方を、二次元的と三次元的の両方で考えてみると面白いなと思いました。

例えば、「適応」を重視する人は、「変わらない」というよりは、「逸脱しない」ということだと思うので、例えば、二次関数の0の付近に安住するという感じなんじゃないかと思います。
確かに、二次元的に言えば、変わらないと言えるかもしれませんね。

一方、「成長」の人というのは、例えば、多少ブレながらも、二次関数のY軸に沿ってほぼ直線を描いているイメージなんじゃないかと思います。
こちらは、変わっているといわれれば変わっていますよね。。

では、これを三次元でみたらどうでしょうか?

三次関数の図表上で視点を変えてみたら、「適応」の人も、平面では把握できない方向におおいに変化しているかもしれませんね。
逆に、「成長」の人が描く直線と垂直になる位置に視点を置くと、変化の無いパターンが現われます。

そう考えると、「適応」の人は、「変化していない」ように見えても、実は「変化している」と言えるんです。
そして、「成長」の人は、ある意味、「変化している」けど「変化していない」という矛盾が成り立ちます。

「適応」の人が軸としているのは、恐らく「世間」とか「常識」ですね。
なので、「適応」の人なりの「変わらない」努力、つまり世間や常識に合わせる努力は、自分の成長をある程度放棄する形で行われていると言えるのではないかと思います。

逆に、「成長」の人が軸としているのは、あくまで「自分」です。
世間から見ればおおいに変わっているように見えても、その人自身が別人になった訳ではなくて、実は、その人自身の身長が伸びるように、成長しているに過ぎないんだと思います。

このように、三次元的な視点で考えると、矛盾が矛盾でなくなることなんて山ほどありそうですよね。
実は、これってすごく重要なポイントだと思うんです。
だって、平面的にしか考えられない人で、一度、その浅い考えで矛盾を主張し出したら、それ以降話が平行線になってしまう可能性が高いですよね。

だから、矛盾が矛盾でない可能性を考えることは、実はすごく重要なんだと思います。

さらに、個人的には、「成長」の物語よりも、僕は「蘇生」の物語が好きです。(「適応」の物語はあまり読む気がしないですね・・・)

最近、映画館でも観た映画「ブラッドダイヤモンド」をレンタルして観ました。
この映画は、アフリカ国々の貧困や社会的背景や、現代人の価値観への問いかけ、家族愛、ロマンスなど様々な要素が入り混じっていて、どの要素を主として観るかで、観た後の感じ方が変わってくると思います。
僕は、この映画で一番印象的だったのが、主人公の「蘇生」のドラマです。

人間の「蘇生」のドラマは、どんな物理的なアクション映画などよりも、ドラマティックでダイナミックに僕は感じます。
「蘇生」は人間の「成長」の一種とも言えると思いますが、その成長のスピードが半端じゃない成長のパターンに当たると思います。

なので、勝手なこじ付けですが、四次元的な視点で考えると(四次元というものがどういうものなのか知りませんが・・・)、ただコンスタントに成長するだけではなくて、その「加速度」も重要になってくるのではないかと思います。

あくまで物語の中の話なんですが、「ブラッドダイヤモンド」の場合、自分の「蘇生」が、自分の「死」をも受け入れられるようになるほどに掛け替えのないものだったんだと思います。
DVDの付録にあったこの映画の監督の解説にもありましたが、この「蘇生」のドラマは、本当に短い間に起こりました。
それだけに、何度観ても心を打つし、彼の死が、必ずしも悲しく無いという、ある意味歓喜の中の死に当たるんじゃないかと思いました。

現実世界で言うと、殺人罪で死刑判決を受け、牢獄の中で敬虔なクリスチャンとなり見事に蘇生したカーラ・フェイ・タッカーは、刑務所の中でのCNNラリー・キング・ライブのインタビューの中で、それから自分の身に起こることをすべて受け入れる準備が出来ているようでした。
彼女に言わせると、「神を信じる」ということは、必ずしも死刑判決が覆されて「死刑にならない」ということではないんです。
結局、彼女は死刑になってしまうのですが、「死ぬ」ことさえも受け入れられるくらい、自分の「蘇生」に対して神に感謝出来たのでしょう。

それだけ、人間の「蘇生」というものは偉大なのだと思います。

二次元的に考える「適応」の人では到底達することの出来る境地ではないし、「成長」の人でもきっかけがなければ到達出来ないでしょう。

僕は、自分の人生が「蘇生」の人生であるように、変化を恐れずに、精一杯頑張って生きていきたいなと思います。

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