不思議法則

先日、「祈り」というタイトルで書いた日記に出てくる下記の部分について、少し説明しておきたいなと思いました。

>自らを信じよ! 卑下するなかれ!
>卑下は仏法への違背だ。胸中の仏界への冒涜だからだ。

祈り
mixi.jp/view_diary.pl?id=576914377&owner_id=2247284

ここには、「仏法」だ、「仏界」だと書いてありますが、「仏法」を持ってないから関係ない訳ではなく、「仏界」とは仏法で定義している表現なだけであって、誰にでも内に存在し至る事の出来る境地のことです。

以前、マイミクの方に教えてもらった『海の文化と村の文化』という学会のドクター部の方のスピーチに出てくる「不思議法則」という概念が、この部分のことを論理的に説明しているなと思ったので、抜粋して載せておきます。

普通に、誰の生活にも役立つ内容だと思うので、是非とも読んでみてください。

————————————

『海の文化と村の文化』byドクター部 於保 哲外 先生 より抜粋

いろんな人を見ていると、真面目な人、頑張り屋の人、責任感の強い人、また、思いやりのある人、自分のことを顧みず尽くす人、こういう人が不思議に行き詰まっている。
真面目な人が、頑張っているのに不思議に開けない。そこまで人に尽くしている人が、有り難がられるどころか、かえって迷惑がられたり、バカにされたり、ひどい場合は恨まれたりしている。そういう人を見たことありません?真面目な人が意外と開けない。
そうかと思うと、ちゃらんぽらんで、図々しくて、要領よく立ち回っている人が、やることなすこと意外とうまくいく。うまくいくものですから、ますます人に持ち上げられて、ますます、開けていっているという現実がある。
私はいろんな人の人生に出会う場面が多いものですから、よくそういう現象を見るんです。正直者がばかを見て、悪い奴ほどよく太ると。
「なぜなんだろう?」最初のうち分かりませんでした。私はちょうどそういうことを研究できる立場にありまして、その結果、だんだん見えてきたことを、「ふれあい診察室」に書いたんです。最初、抵抗がありました。これはちょっと問題あるから載せてくれるかな。カットされるかなと躊躇したのですが、あえて書きました。おそらくそういうことで悩んでいらっしゃる方があるだろうから、そういう人のためにと思って書いたんです。幸い載せてもらえました。
そうしたら、何件かやはり問い合わせがきました。
「書いてあるとおりです。私は去年まで一生懸命、折伏し、新聞啓蒙し、また、財務も頑張り、全力で戦いました。ところが、病気になって、今は生活保護を受けています。なんで、こんなに頑張っているのにこうなるのか、わからない。そうなると書いてある、そう書いてあるけれども詳しく書いてないから、よくわからない」ということで、問い合わせがきましてね。
さっそく、お返事を書いて、後で喜んでいただきました。実はこういう現象が起きる原因は、その奥に一つの法則があるからなんですね。表面の現象でなく、その奥の法則を「不思議法則」と勝手に名づけたんです。
どういう法則かというと、たとえば、困っている人のため、家族のため、また、学会活動のため、広宣流布のため、世界平和のため、世の中の正義のために、戦う。だけど我慢して、自分を殺して、すなわち、自分を粗末にしてやる人は、福運を失う。したがって、自分を粗末にしているように、人からも粗末にされるようになっていくという法則なんですね。
「私さえ我慢すれば、私さえ耐えていれば、いつかこの苦労が実るときが来る。それまでの辛抱だ」。「陰徳あれば陽報あり」なんだからと。やればやるほどひどくなるんです。これでもかこれでもかというくらい、ひどい目に遭うんです。
つまり、これは陰徳にならないんです。どうしてかというと、妙法の当体を殺しているからなんです。同じ事をやっても自分自身が喜びながら、楽しみながら、自分の命を輝かしながらやることは、これは福運になっていくんです。したがって、自分を大事にしているように、人からも大事にされていく。

一生懸命、自己犠牲精神で頑張っていればいつか功徳が出てくるだろうというのは間違いですね。この不思議法則。

この不思議法則。不思議というのは妙。法則は法。すなわち、妙法なんですね。したがって、妙法の当体を粗末にする人は、福運を失うんです。妙法の当体を輝かせる人は、福運を増していくんです。現実にどういう行動をとっているかということは大事です。しかし、自身の本心がどっちで生きているのか。自分の生命を輝かせ、楽しみながら生きる方向なのか。自分を卑下し、追いつめていく方向なのか。その生命の奥底がどちらに向いているかがさらに重要なんですね。

これは池田先生の指導ですが、「何を根本として尊敬するのか。それは自身の生命である」。自分の生命を根本として尊敬する。根本ですから、何かができるから尊敬するのでもなければ、大失敗をしたから尊敬できないのでもないのです。どんな境遇にあろうとも自身の生命の尊敬から出発する。これが御本尊を持(たも)つということです。

「傲慢」「慢心」の「慢」とは、人と自分を比べて、自分のほうが優れていると見る心です。すなわち、慢心の人はいつも、人と自分を比べて、私のほうが立 派だ、私のほうが金持ちだ、私のほうが良く頑張っている、と言って、自分の優位性を確認することによって安心しようとする、この生命の働きを「慢」という のです。
どうして、人と比べて安心したがるか、実はこの生命の奥底に不安があるんです。自分への不信がある。劣等感があるんです。したがって、自分の優 位を確認してちょっと安心してもすぐに不安になるから、また、次の人をつかまえて「俺の方がすごい、私の方が立派よ」と、これをいつも続けている人を 「慢」というんですね。
すなわち、慢心の心の奥底には、劣等感と自己不信がある。

一流といわれる人物は、「実るほど、頭を垂れる、稲穂かな」。一流人物ほど腰が低い。人を尊敬します。そういう人は自分自身に「自信と誇り」を 持っている。その「自信や誇り」は人から認められているから持っている「自信や誇り」ではないですね。世間が見向きもしない先駆的なことをやって、やが て、世間がついてきて認めるんです。
すなわち、もともと自分自身に「自信と誇り」を持つ生き方が一流。すなわち、「自分が偉大な仏なんだ」と「100点満点なんだ」と見ることは、一見、慢心に見えるけれども、実は、それは一流の生き方なんです。

ずうずうしい、図太いというのは人から嫌われるように思うんです。だけど、これで行くと不思議に開けてくる。そういういろんな例を見るにつけ実感するんです。
今、多くの真面目な方が行き詰まっていらっしゃる。その根っこに実は「念仏思想」、「村の文化」があるんです。これからの日本は、この「村の文 化」では世界から相手にされなくなってくる。自立的な「海の文化」としての法華思想を、いよいよ世界に宣揚をしていく時代が来た。そういう意味で創価学会 がその先頭に立つ時代が来ている。その学会の中が「村の文化」で行っていたのでは困りますね。

『海の文化と村の文化』
www.pegasus-pro.com/jonathan/contribution/doctor-obo1.htm

Similar Posts:

コメントを残す