実は驚くほど自分に近い?「仏」の姿

Buddha

「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ 教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞いにて候けるぞ」日蓮

これは今月の座談会で扱った御書の一節なんだけど、僕はこの御書が好きだ。仏法を学び始めてから最も衝撃を受けた御書。何しろ、「仏」とか、そういう人間を超越してそうな存在に対するイメージが劇的に変わった。

みなさんは、「仏」と聞いてどんなイメージを抱くだろうか?僕は、昔、「仏」って人間を超越していて、「苦しみ」とか「悩み」とかとは無縁な別世界に住む存在だと思っていた。だけど、仏法の世界の「仏」像は全く違う。嫌悪感を感じるほど違うと思う。

成仏した(仏に成った)とされる不軽菩薩(釈尊の過去世の姿)は、僕らと同じこの地球に生まれ、人々を導いたとされる。「仏」といえば、自分を棚上げして安全なところで人々に説教をしたイメージもあったけど、実際は、人々から暴言を浴びせられ、杖で打たれ、瓦や石を投げられて迫害されていた。

不軽菩薩のすごいところは、それだけ迫害されても人と関わることをやめなかったこと。どんなに意地悪されて暴力をふるわれても、人々に備わる「仏の生命」を礼拝してまわり続けた。その実践の中で、やがて六根清浄(生命の浄化)の功徳を得て成仏したとされる。

不軽菩薩は、釈尊(お釈迦様・ブッダ)の過去世の姿。ということは、釈尊は果てしなく昔から実は成仏していたということ。それなのに、この地球にまた生まれ変わり、人間として泥臭く活動をした。「仏」とは、自ら願ってそうするものなんだと。

釈尊がこの世に出現した根本の目的は、「人の振る舞い」を示すことにあったとされる。人々は、「あなたには仏の生命がある」と言われても簡単には信じない。「おれにそんな可能性があるわけないだろ!」とキレて暴力を振るうくらいだから…

釈尊は、最初から、説教しただけで人々が悟りの境地に至れるとは考えていなかったのだと思う。だから、自分を安全で別次元の存在に棚上げせず、わざわざ乱れた世相の世界に人間として願って生まれ、「人としての模範を示す」ことによって人々を導こうとした。

意地悪されたり暴力を振るわれ迫害の連続でも人間臭く、泥臭く人と関わっていき、次の世でも同じように泥臭く人々を導いていくことを願う…これが「仏」像だとしたら、みなさんはどう思いますか?僕には、考え方が180度変わるほど衝撃的なものでした。

「仏」の世界に、自分以外の「環境」は関係ない。苦悩に満ちた地獄のような環境においても、変わらず仏の境涯で人々を導いていけるのがむしろ仏だということ。「そんなことはしたくない」と思えるくらい、実は、僕たちにも現実的に出来そうなことではないかな?

「仏」っていうのは、僕らの想像よりずっとずっと自分に近い存在なんだと思う。自分自身が実は…っていうくらい。そう思えるだけで、人生が大きく変わってくるのかもしれない。

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