#043. 当事者を回避している

最近、初めて椎名林檎のやっている東京事変というバンドの「群青日和」という曲のPVを見た。
この曲は僕の中でハートビート(心地よいビート)な8ビート主体で、グイグイ前へ駆け抜けるような爽快な曲だ。
すごくPVもかっこよくて、それだけでも釘付けになるには十分だった。
でも、僕が一番「はっ」としたのが、歌詞の中にある「当事者を回避している」という部分だった。


彼らの伝えたい事と僕が思っている事と必ずしもリンクしているわけじゃないと思うけど、僕も最近、「当事者を回避する」という事にすごく感じる事がある。
「当事者」というのは、その物事に直接関わっている人の事を言う(んだと思う・・・)。
主に事件で、被害者になった人と加害者の人とその家族などの関係がある人などに使われるんだろうけど、ここでは、「事件」に関わらず、「すべての物事」に対して使おうと思う。
僕は、当事者になるという事がどういうものかを考えてたら、4つほど確信めいたことを感じている。
一つ目は、何でも当事者になったり、なってしまったら、すごく大変で少なからず精神力がないと乗り切れないという事。
例えば、身近な話では、学級委員とか、議論の司会とかやるのは、すごく責任を伴うもので、中にはやりたがる人もいるけど、ほとんどの人は出来るなら避けて通りたいと思うだろう。
二つめは、当事者とその他の第3者とじゃ、全く状況が違うんだって事。
例えば、当事者同士が議論をしていて、それを聞いていた第3者が仲介に入り、その議論の仲介をして丸く収まったとする。
一見、その仲介を行ってこの件を丸く収めた第3者は素晴らしい働きをして鼻高々になってるかもしれないけど、その人が当事者になったとしたら、果たして同じように考え、この件を丸く治めることが出来ただろうか?
必ずしも結果は同じとは限らないと思う。
それだけ、「主観的になりがちな当事者」と、「客観的に考えられる第3者」とでは状況が違う。
三つ目は、常に第3者でいようとして、当事者になる事を回避しようとする傾向のある人がいるという事。
僕が実際にそうだったからその気持ちが良く分かる。
そういう傾向のある人は、第3者でいて客観的に的確な意見を言えて誇りを持てる半面、心の奥底では当事者になる事を無意識のうちに回避しているんだと思う。
僕は、むしろ、客観的に見て冷静な意見を言えるのは当たり前の事だと思う。
四つ目は、どんなに優れた人間でも、その人が第3者で居続けるなら、いずれは当事者になる事をいとわない人間にはいずれ成長して追い抜かれてしまうということ。
あえて当事者になるって事は、最初はすっごい苦しくて、辛いと思う。
僕のその初体験は、忘れもしない、社会人1年目でOJT報告会というのがあって、その時に司会をした事だ。(思い出すだけで尿が出そうだ・・・)
結果は全くの大失敗で、ろくに進行が出来ず、有意義な時間とはとても言えず、出席者にただ申し訳なく思った。
僕はその日、自分が情けなくて帰り道に平塚の花水川の川沿いでしばらくたたずんでいて、いっそ身投げでもしようと思った程だった。(死ねるような川じゃないけど・・・)
でも、その後、会社に行ってみると、会社の上司や役員達は、そのチャレンジした事を評価してくれた。
やりもしないのに、そんなの「出来る」とか、それ「知ってる」とか思って、あえて当事者になる必要はないと思う人もいるかもしれないけど、必ずしもそうじゃないと思う。
僕は、その辺をrealizeして、その報告会で司会を経験しなかった人より、すごく貴重な経験をして、それをきっかけに自分を良い方向に変えられたと思ってる。
何でも最初から出来る人なんていない。
どんだけ多くの事が出来るようになるかは、どれだけ多くの物事に「当事者として」関わって、深い体験をするかだと思う。
僕は、こういう風に考えてから、自ら当事者になる事を恐れなくなった。
当たって砕けろタイプになって、みんなの笑いものになってもほとんど気にならなくなった。
それは、僕が未来に描いているビジョンに向かって真っ直ぐ突き進んでいると確信してるから。

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