「神」とは「働き」に過ぎない

確かに、キリスト教と仏法では、得に「神」というものに対して大きく教えが違う。キリスト教ではキリスト自体が絶対的な神となっているけど、仏法でいう神(諸天善人)とは「働き」に過ぎず、仏の生命を宿している僕たち人間(仏)が、神というその働きを興す立場にある。

「神」より、僕ら自身である「仏」の方がずっと尊く、「仏が神をコントロール出来る立場」という考え方。人生は神によって宿命付けられているわけではなく、人間が神という働きを興して宿命を転換することが出来るということ。本当のところは分からないけど、後者の方が自分に得だと思うからそう信じている。

昔は「宗教=絶対的な神がいる」と思ってたけど、仏法を実践し始めてから、そういう固定観念があることにすごく違和感を感じるようになった。その固定観念を打破しない限り、仏法は本当の意味で理解出来ないと思う。 

イエス•キリストは、仏法でいう「菩薩」や「仏」の生命境涯を体現した人で、歴史上で最も偉大な人物であることは間違いないと思う。だけど、彼を「絶対的な神」としてしまうところに、教えとしてのキリスト教の危うさがある。恐らく、それはキリストの意思ではない。 

「神」に対する捉え方で、生き方が大きく変わると思う。「絶対的な神」がいる前提でいれば、生身の人間ではコントロール出来ない「神」や「運命」などの超えられない壁が立ちはだかることになる。その点、仏法には、(働きとしての)「神」や「宿命」をも人間次第で動かせたり変えたり出来ると捉える。 

宗教嫌いな人が多いのは、特定の「絶対的な神」を信じるのが嫌だからなんじゃないかな。僕もそれだったら嫌だ。でも、宗教はそれだけじゃない。 

人によって別々の「絶対的な神」がいれば、そりゃ争いの種になることは間違いない。現実、そうなってる。だけど、帰依する対象を、「無限の可能性を秘めた尊極の生命」とすれば、争いは生まれないはず。

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