嫌がられる人の多くは、与えてもらうために他人に働きかけるような人だと思う。相手のためってのはなくて、自分の気分を良くするためだけに他人に働きかける人。そういう人は、相手が嫌がってても気づかない。

「そういう人に嫌がられる行為と言えば、まさに創価学会員が公明党に票をいれてもらえるように友達に片っ端からお願いするのがそうじゃないか」と言われそうだけど、確かにそういうケースも多々あると思う。確かに、他人への行為の中に「相手のため」っていうのをバランスよく入れるのは難しい。

アメリカにも、変わってて人に相手にされなかったり嫌がられている人はいる。僕は、ほんの一部だけど、そういう人たちとも仲良くしてきた。そうやって分け隔てなく接したからか、とても別れが名残惜しくて、出来るだけこっちにいるうちに会いたいと言ってくれる人もいる。

会って遊びたいと言ってくれるのは嬉しいけど、彼の姿勢はいつも受け身なんだ。遊ぶ機会をセッティングするのもほとんど僕任せだから、それだけ僕に負担がかかる。帰国直前でもの凄く忙しいんだけど、そういうことを考慮しない。「相手のため」ってのも考えれば、自分が率先してプランしていくべき。

与えてもらうだけしか考えず、それに気づかない人は、そりゃ嫌がられて当然。だけど、そういう人たちと距離を取れば解決だなんて単純な問題ではない。むしろ、僕たちはそうし続けてきたために、取り返しのつかない地点まできたのかもしれない。恐ろしく地道にみんなでリハビリしていくしかないのかも。

以前、「変な人」の居場所を奪う社会という記事を書いたけど、この記事では「変わってる人」に対して、周りの人々が寛容になる必要性を書いた。そういう「嫌がられる人」に対して距離を置きたくなるのは分かるけど、社会の中で見えないプレッシャーをかけて言葉を封じたり、家の中から出にくくしたりするのは、結局は社会にマイナスになって、自分が損をする。

本人に対しては「気づけよ!」っておきながら、周りには「寛容になれよ!」って言って、矛盾しているような話だけど、どちらかだけが問題というよりは、どちらも問題になる場合がほとんどだと思う。「自己責任」では済まされない話だし、環境だけの問題にも出来ないということ。