言葉を封じず、可能性を拓く

もう一つもどかしく感じ続けていることがある。自分が学び、経験して培った考え方には、絶対正しいだなんて思わないけど、結構自信がある。そればかりに、上から目線で話していると思われたり感じが悪いと距離を置かれてしまうのか、その考え方や可能性の正当性を検証するまでに至ったことがほとんどない。

よくあるシチュエーションが、「自分にはこれだけ可能性がある」とか「もっと評価されるべきだ」とか言っている人を端から見てて、「勘違いしてんじゃねぇよ!」「自惚れんな!」って反射的にどこかでささやかれるだけで、そのまま放置されるというもの。このろくに検証もせずに否定する圧力が、日本をダメにしてると思う。

何かの可能性に対して、想像力を働かせることも検証してみようとする意思もなければ、その可能性に対する正当な評価なんて出来っこない。そうすると、結果的に可能性は拓かないから、状況も良くならないし、むしろ悪くなるばかり。まさに、今の日本の状態。

お互いの正義のぶつけ合いだけじゃダメだけど、根気よく対話し合って認め合える部分が一部でもあって欲しい。お互いに牽制し合うだけで、それさえも見いだせないのは何とももどかしい。

こういう風に言えば、「お前にも落ち度があるんじゃないのか?」と言われるかもしれない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。僕にも何がその原因なのか分かってない。僕がもどかしさを感じるのは、お互いに勝手に推測するだけで、検証されることなく放置されるだけになること。十分な検証の結果、本当に勘違いや自惚れだということが判明すれば、自分にとっても前進だ。

僕がわざわざこんな痛いつぶやきを流すのも、そういう「お互いに勝手に推測するだけで、検証されずに放置されるだけ」という状況が他にもあって、もどかしい思いをしている人がいるんじゃないかと推測すること。そして、例えば、この推測も沈黙のうちにいろいろ推測されるだけで、そのまま放置かもしれない。

人間の可能性っていうものは、今この瞬間のスナップショット的なものでは到底計れず、将来的にどこまで拓くことが出来るかは簡単に分かるものじゃない。想像力を全開にして描いてみれば、全く違ったものになるはず。それもせず、しかも、今のスナップショット的な状態もろくに検証しないようじゃ話にならない。

また、一概には言えないけど、僕が出会った範囲のアメリカ人は、他人がする自分をアピールする話(自慢話を含む)にとても寛容だった。自分のことを語りたいだけで他人のことにそれほど興味がないっていうのもあるけど、少なくとも、妬みとかから反射的に「勘違い」とか「自惚れ」と言われ、言葉を封印されるようなことはなかった。

日本では言えない言葉がたくさんある。そういう空気を作り出しているのは僕たち一人ひとりなんだと思う。言葉を封印されるというのはとても苦痛なこと。それによって、いろんな機会や可能性が失われる。「可能性を拓く」という以前の問題。

「可能性を拓く」ということがプラスの効果とすれば、「言葉を封じる」ということはマイナスの効果になる。プラスにすることも出来るのにマイナスにしてしまえば、2倍損をするということになる。日本では、「可能性を拓く」まで至らず、しかも「言葉を封印する」という余計な効果で、更にマイナス効果を出してしまっている。

誰かが何かの可能性を言葉にしたとき、推測しあって牽制・放置せずに、とことん対話して、その可能性の正当性を検証してみればいい。それだけの時間も余裕もなければ、下手な推測をして言葉を封じずに、温かく見守るべきだと思う。

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