【読書6】21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ(佐々木俊尚著)を読んで

この本は、日本式の「リベラル」勢力や本場のリベラリズム、従来のコミュニタリアニズムの限界を見越し、数々の大問題を抱える「日本」という航空機が、現実的で体温の感じられるような「不時着点としての第三の可能性」を探る論考だ。

まず驚くのが、大江健三郎氏、坂本龍一氏、内田樹氏、山本太郎氏など、錚々たるメンツに対して、ある意味、完全にケンカを売っている。理由は、彼らの「リベラル」的な運動は、政治哲学によるものではなく、「反権力」という「立ち位置」に過ぎないというもの。

では、本来のリベラルとはどういうものか?この本には、「現代のリベラルの基本理念」として、以下のように書かれている。

人々には生まれながらにして自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公正さを取り除かなければならない

今、「戦争反対」や「徴兵制反対」を主張することは、果たして「リベラル」といえるのだろうか?

僕は、2007年に「日本の平和憲法が機能する条件」というブログ記事を書いた。一部を以下に抜粋する。

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「戦争」自体に、良いも悪いもないと僕は思ってます。

過去の歴史を紐解いてみれば、戦争を起こさなければならなかった場面はいくらでもあったのだと思います。

コスタリカが直面した1948年の内戦もそうです。

当時、腐敗を極めていたカルデロン政権に言論弾圧を受け、メキシコに追放されたフィゲーレスが、社会民主党を組んで政権に挑み、選挙無効などの独裁的な手段に出る政権に対して武装発起しました。
内戦は6ヶ月ほどで終結し、約2000人の犠牲と引き換えに、コスタリカは、民主主義と軍隊を廃止する平和憲法を手に入れました。

僕は、この戦争については、肯定も否定も出来ません。

ただ言えることは、この約2000人の犠牲の責任は、コスタリカがこんなにもぎりぎりの選択を迫られるような状況になるまで放っておいた世界中の人々にあるということです。
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8年経った今でも同じ考えを持っていて、これだけ絶望的に入り組んでしまった世界情勢下では、日本が武力による支援を検討すべき国や地域があってもおかしくないと思っている。そんな必要性を生んでしまっているのは、紛れもなく「無関心だった僕たち」「十分な働きかけをしてこなかった私たち」の責任なのだ。

まずはその反省を共通の出発点として議論を始めないといけない。にもかかわらず、自分を棚上げして「自分たち(正義)」と「権力(悪)」という構図を作り上げるに終始するのであれば、確かに、それは政治哲学というより、「立ち位置」に過ぎないかもしれない。立ち位置にこだわっている以上、本物の変革はあり得ない。

そもそも、民主主義国家では、権力者は私たち「国民」だ。だとすると、味方も「私たち」であり、敵も「私たち」であるはず。本当に向き合うべきは、自分たちが(間接的にでも)選んだ政治家や政府ではなく、あくまで「私たち」であるべき。そうだとしたら、働きかける先が政治家や政府だけになってしまうのは、本末転倒なのかもしれない。

日本の「リベラル」勢力は、「独裁主義」と聞いただけでアレルギー反応を示し、無条件に「悪」というレッテルを張ってしまうかもしれない。しかし、この本では、中国やシンガポールの例を出し、独裁主義についての捉え方やイメージの再構築を提案している。

以前、今一度、「国民主権」について考えてみたいというブログ記事で、民主主義と独裁主義について以下のように書いた。

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「民主主義」というかけがえの無い自由を得ることと引き換えに、僕たちは、実はとんでもない責任を背負っていることになる。民主主義は、機能させれば最高の結果に行きつくことが出来る。その代わりに、機能させられなければ、独裁主義よりひどい結果になり得る
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このジレンマは、僕たちが本当に求めている自由とはどちらなのか?という下記の究極の選択肢に現れている。

  • 生存は保証されていないが、自由
  • 自由ではないが、生存は保証されている

また、この本では、従来の「リベラリズム」と「コミュニタリアニズム」の限界にも切り込み、第三の方向性を模索している。

リベラリズムは、「普遍的なもの」「理想的な個人」を目指すもの。ただし、これは本当は存在しない幻想だとしている。「ものごとはたいていグレーであり、グレーであることをマネジメントするのが大切である」という考え方や、ヨーロッパ的な価値観が実は万能ではなかったということからそう断じている。

コミュニタリアニズムは、共同体に参加することに価値があると考え「参加」を求めるもの。ただし、内と外のあいだに壁をつくって、結果的に外側(参加しない人)を排除してしまう。共同体内の結束や忠誠という文化に耐えられる人は手厚く守られるが、その文化についていけない人は「自己責任」という荒波に放り出されることになる。

この二つの課題点をクリアする第三の方向として、筆者は「ネットワーク共同体」という概念を提案している。その概念について、筆者は以下のように表現している。

ネットワーク共同体における人と人の「線」は、ひとつではない。さまざまな線がさまざまな太さで、さまざまな人たちを結びつけている。そこには多層化されたレイヤーがあり、さまざまなレイヤーのさまざまな線上に人々がいる。民族や国家、地域など多層・多元化された線によって立体的に構成されたオープンな三次元共同体なのだ。

これは、従来の日本の「ムラ」のような共同体とは一線を画していて、インターネット上のSNSのような、人と人とのつながりがゆるく広く多層的で柔軟に張り巡らされるような共同体だと理解している。内と外との境界線が極めて曖昧で、右や左などの両極端はなくなり、むしろ大半がマイノリティーに属し、それが当然という認識になる。

当然、両極端が生まれなければ大きな対立は生まれないし、マジョリティが存在しなければ排除は行われない。多層化・多次元化され境界が曖昧な共同体構造では、意識しなくても参加することもあり、いつの間にか当事者性を持って行動しているということもあり得るだろう。このような社会構造化であれば、自由や富を手放す代わりに、例外なくみんなが最低限の豊かさを享受して生きていけるのかもしれない。

気が遠くなるほど多くの大問題を抱える日本社会において、著者が見極めようとしているのは、あくまで現実的で体温の感じられる「不時着点」だ。時には妥協も必要かもしれないし、抗議活動の他にもやるべきことは確実にある。僕たちには、足を引っ張り合っている暇などどこにもない。

僕たちが「根本的に何を目指すべきなのか?」について課題点を整理し、その原点に立ち返る必要性を痛感させられる一書だ。

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