Ikiru_1黒澤映画「生きる」を観た。ガン宣告を受けて初めて本当の意味で「生きる」人もいるんだろうな。僕もそうかもしれない。昔からあった教訓なのに、現代を生きる僕たちは生かせていないのかも。役所の構造も、部署間の溝があるという意味では、この時代から進歩していないのかも。

「生きる屍」っていう状態はやっぱりあると思う。映画「生きる」では、「ガン宣告」が蘇生の引き金になったけど、他にどんなパターンがあるかな?どんなパターンにせよ、「死を意識する」っていうのが共通点としてありそうな気がする。

映画や本など、古いものはどこか質が悪いと一方的に先入観を持ってしまう癖があるけど、そんなことは必ずしも無いな。むしろ、昔のものに触れた時に、今という時代がほとんど進歩していないか、むしろ後退していることに気付かされることがある。

黒澤映画「生きる」の主人公は、市民課長としての地位を守る為に何もしない「生きた屍」のような人間だったが、胃がんだと気付いてから人が変わってしまった。まず、「消費する」ことをした。だけど、消費するだけでは「生きる」ことは出来ないことに気付いた。そして、「生産する」ことに目覚めた。

黒澤映画「生きる」の主人公が「生産する」ことに目覚めてから着手したことは、「公園の建設」だった。それは「市民課」の枠ではどうしようもないことで、生きた屍のような助役や他の課の役人に働きかけなければならなかった。彼は、自分の責任範囲を超え、危険を犯してまでも公園建設に尽力した。

「命をかけてするボランティア」ってあってもおかしくないと思う。歴史的に見ても、腐敗した社会に変革をもたらしたのは、命をかけた市民のボランティアだったと思う。「お金がもらえないからしない」という選択肢はありだけど、「変革が起せない代償」は決して小さくないはず。

「ボランティア」は、他人のためだけではなく、自分が本当の意味で「生きる」ために必要。そして、それに気付き行動し始めるには、場合によっては、「余命の宣告」くらいの強烈なきっかけが必要。黒澤映画「生きる」のメッセージはこんな感じかな。