今日は、「生産と消費」についての連続ツイートをしようと思います。

産費(1)『戦後は、戦前の大家族主義から、消費を前提とした「都市型」の「核家族」が圧倒的に増えて、家族は、「生産共同体」から「消費共同体」へと変化した。』(降りてゆく生き方・コンセプト:http://ow.ly/468Aq )この変化は、実はとてつもなく破壊的な変化だと思う。

産費(2)生産者と消費者の分離について。生産者は、見栄えの良いものや便利なものを形にしつくし、消費者は「選択するだけ」で何不自由なく生活出来るようになった。だけど、その分、生活の基本である「衣・食・住」を自分たちで作り出す機会が減ってはいないだろうか。

産費(3)現代を生きる僕たちが、どれだけ生活の基本要素である「衣・食・住」の生産活動から遠ざかっているか。元々、生産共同体だった「家族」が、どれだけ消費共同体に成り下がってしまったか。僕たちは、どれだけ普遍的なものを無視して、関連の薄い活動に一生を費やしてしまい得るのか。

産費(4)ちやほやされている職業の多くが、水も酸素も食料も何一つ生み出せていない。何も生産出来ずに、ただ消費だけし、社会を持続不可能にしている。そんなもののために、過酷な競争社会の中で多くの人が血眼になって生存争いをし、水や酸素、食料の生産を支えている人たちを蔑視している。

産費(5)黒澤映画「生きる」の主人公は、市民課長としての地位を守る為に何もしない「生きた屍」のような人間だったが、胃がんだと気付いてから人が変わった。まず「消費する」ことをした。だけど、消費するだけでは「生きる」ことは出来ないことに気付いた。そして、「生産する」ことに目覚めた。

産費(6)黒澤映画「生きる」の主人公が「生産する」ことに目覚めてから着手したことは、「公園の建設」だった。それは「市民課」の枠ではどうしようもなく、生きた屍のような助役や他の課の役人に働きかけなければならなかった。彼は、自分の責任範囲を超え、リスクを犯してまで公園建設に尽力した。

産費(7)まずは出来る限り顔が見える関係を築くことが大事なのかも。「生産者と消費者」、「お店とお客」、「サービス提供者とサービス受給者」、「助ける側と助けられる側」「無償サービスと有償サービス」など、垣根の無い臨機応変な「場」を増やしていきたい。

産費(8)将来、何かの職業に就いて個人とか家族単位で生計を立てようという発想はあまりない。地元のコミュニティのみんなで少しずつ稼いで、みんなで生産して、みんなで消費して、みんなで節約して、みんなで無駄をなくしたいなと思う。そんなに甘くは無いと思うけどね。

産費(9)住宅が「スペースの私有化」と「消費」のためだけに使われるなら、稼働率も生産性も低く、価値が下がってしまう。「共有」、「交流」、「生産」、「売買」、「節約」、「恊働」することによって、同じ住宅でも、価値をぐっと上げることが出来る。

産費(10)農業で重要なのは、国としての自給率だけじゃなくて、「地産地消率」と、「一般市民の生産活動への従事率」も大事だと思った。都市農業を推進して都市でも自給率を上げることは出来るし、生産者と消費者の垣根をなくし消費者がちょっとした生産者になることも出来る。

産費(11)Community Supported Agriculture(CSA)は、コミュニティとしての農業の形で、一般市民が直接or間接的に生産活動に関われる仕組み。間接的にというのは、CSA農家に定期的にお金を払い(投資し)、助けること。その対価として生産物がもらえる。

生消(12)「ベッドタウン」が嫌いなのは、「稼働率の悪さ」があるから。そこに構造物や道路を造ればもはや動物もいれなくなるし、雨水も吸わないし、酸素も生み出さなくなる。私的に使えば限られた人しか使えなくなる。日中仕事に行ってしまえば誰もいなくなる。ロスばかりで取り戻せない。

生消(13)ベッドタウンだとしても、沢山の人がいるんだから、経済構造を作ることは出来る。ベッドタウンをベッドタウンのままにしておく義務なんてどこにもない。「共有する」、「交流する」、「生産する」、「売買する」、「節約する」、「恊働する」ことで、ロスを取り戻す事は可能。

生消(14)かなり大きめのアパートに住んでるんだけど、今までいろいろ研究してきたサンドイッチを、住人向けに低価格で売り出そうかなと思う事がある。何の変哲のない住宅地でも経済の拠点と見て、どの住人も生産者でありサービス提供者になった時のインパクトは、革命的だと思う。

生消(15)家族やベッドタウンを含めたより多くのコミュニティを、「消費共同体」から、再び「生産共同体」として機能させていくこと…それは僕の夢でもあり、使命でもあると思っています。