
「自信とプライド」と題してシリーズ化してお届けしています。
今回は、「正しいプライドの持ち方」について。
前回の記事で書いた通り、余計なプライド(見得とか世間体など)が邪魔して引きこもらざるを得なくなるケースは少なくないと思う。
個人的には、「余計なプライド」の非生産性に気づいてから、そういう余計な重荷を徐々にそぎ落とそうと努力してきた。
その甲斐あって、今では、そういう余計なプライドのためにストレスを溜めてしまうというようなことはなくなってきた。
余計なプライドがなければ、例えば、30代半ばで非正規雇用で、しかも独身なのに、自発的に地域のボランティア活動とかお祭りの手伝いに参加してしまえる。僕にはそれが出来る。
これは、よほどプライドが低くないと出来ないことだと思う。もちろん、僕にもちょっとはプライドがあり、そんな惨めな自分を地域社会に晒すのは辛い…
だけど、個人的には、そんなつまらないプライドより、「地域を良くしたい」というもっと生産的な動機を優先することが出来た。
つまり、余計なプライドを捨てれば、行動範囲も広がるし、発想の自由度もリミッターを外していける。
それでは、「正しいプライドの持ち方」とはどういうものなのか?
「持てば重荷になるだけのプライド」と、「最低限持つべきプライド」との線引きはどこで行えばいいのだろうか?
個人的な結論を言うと、プライドなんて、人間として最低限の権利である「人権」的なプライドだけで十分。
もちろん、人権の定義は時代によっても場所によっても違うけど、基本的には権利はみんな平等であるべきで、そこに優劣があってはならない。だから、権利が脅かされている人は、プライドをかけてとことん戦うべきだ。そこは妥協してはいけない。
世界の大きな都市では大体行われているゲイ・プライド・パレードも、その「人権的なプライド」を主張している。何も、ストレートの人以上の権利や優越性を主張している訳ではなく、元々剥奪されている権利と尊厳を取り戻そうとしているだけ。
ということで、個人的には、プライドの持ち方の正邪は、「人権」という線で引くべきだと結論してみた。その上で、それぞれが「自信(自尊心)」を高めていくのがベストだと思う。
それ以上に、他者に対してのプライド(優越性)を追及すると、どうしても話がややこしくなる気がしている。
次回の投稿では、プライドも自信もないタイプについて書こうと思う。