今年8月頃から、僕は親戚のおばさんの家に下宿させてもらっています。

おばさんは料理好きで、平日は朝晩、休日は朝昼晩、喜んで飯を作ってくれます。
一人暮らし時代にやっていた家事の部分は、おばさんが嫌な顔一つせずにやってくれるので、相当に楽しています。

仕事から帰って、玄関のドアを開けて、靴を脱いで、「ただいま」と言った瞬間に、カチッとガスコンロの音がします。
冷蔵庫を開ける必要もなく、食事の用意が整っているので、僕は、新聞を読みながら、ふふふ?んと飯を食べるだけです。
風呂はちょっと古いタイプで、ガスの元栓を開けて5分か10分くらいしないと火がつかないんですが、それもぬかりなく、いつも予め開けてありす。

こうやって挙げていけばきりがないくらい、僕がおばさんちで生活する上で障害になりそうなものは、事前に取り除かれています。

雨戸開けるのを手伝うというと、「いいよいいよ?、庭の世話とセットでやるのが習慣だから」とおばさんは言います。
自分の分はお茶碗片付けようとすると、「そのままにしといて、おばさんのやり方で徐々にやるから」といってやらせてくれません。

そうやって数ヶ月おばさんちで生活してみて、先日、おばさんが2日ほど家を空けた時がありました。
その時、僕は、些細な事で、いくつもの小さな障害につまずき、その度にその障害を取り除くために少しずつとはいえ、時間を要しました。

1年間、こういう生活をしていたら、もしかしたら、おばさんがいなければ、家の中では「何も出来ない」というより、「出来ない上に、何もしようとしない」人間になっていたかもしれません。

考えすぎかもしれませんが、おばさんは、無意識のうちに、僕に何も出来ないようにさせて、無理矢理自分の存在意義を示そうとしているんじゃないかと思うことがあります・・・
たまに、近所の人と話している時とかに、おばさんが口を滑らせれば、「あの子は私がいなければ何も出来ないのよね?」とか言いそうな気さえしてしまいます。。。

おばさんの娘さんで、僕の従姉妹にあたる人は、もう40過ぎなのに、ずっと一人暮らしをしていて、ほとんど実家に帰ってきません。
未だに自分の親に対して感謝出来ず、むしろ憎んでさえいるようです。
でも、その従姉妹の気持ちが、今は少し分かるような気がします。

おばさんは、戦時を女学生として生き、戦後の悲惨な中を生き抜いてきたという僕らには到底考えられないくらいの苦労人です。

おばさんはよく、「自分がこんなに苦労してきたんだから、子供には苦労をさせたくない」って言います。
また、「こんなにも悲惨な中を生き抜いてこれたんだから、どんな環境でも生きていける」とも言います。

だけど、僕は、それって明らかに矛盾していると思うのです。
だって、「自分がしてきた苦労を子供にさせたくない」ってことは、もろにおばさんが今の自分を否定していることになると思えるからです。

おばさんは、良く「あなたはまだ苦労していないから・・・」って僕に言います。
でも、僕は思うんですが、苦労してきて、その苦労を糧にして今の自分があるんだって思える人は、苦労を顔に出さないし、苦労を苦労だけとして語らないと思うんです。

僕はまだ苦労という苦労をしてきていないかもしれないけど、それでも、将来、子供には何でもやらせてあえて苦労をさせたいと思ってます。
そこに愛があれば、子供は必ず分かってくれると思ってます。
自分が苦労して来たからこそ、苦労をさせなければ、、、と自信を持って子供に言えるように、今、苦労は買ってでもしています。

いつもながら、前提を超長く事細かに説明したわけですが、ここからが本題です。

おばさんは、僕の為なら喜んで飯を作ってくれます。
食べきれないほど沢山作ってくれて、連続して同じモノは出さないし、絶対に残り物は出しません。
毎月払っている下宿代に見合うものを形で返そうとしてくれているんだと思います。
それがおばさんの生きがいでもあると思うので、それだけならまだ良いと思います。

だけど、例えば、僕が旅行などに行って、家を空けていることが多くなると、貰っている下宿代の分を食事で返そうとして、さらに量が多くなり、豪華になります。
その度に、僕は、「下宿代は感謝の気持ちでもあるので、食事を変える必要はありません」って何度も何度も言っているのに、あまり分かってくれていないようです・・・

それに、個人的なことを押し付けているのかもしれませんが、僕は、世界の貧困の問題や、「食料の60%を海外からの輸入に頼っているのに、その三分の一を捨てている」という日本の現状をおばさんに話します。
そして、「捨てる必要がないようにちょっと少なめでいいです」ってことと、「余るようだったら3日くらい同じ飯でも全然いいです」って言います。
一人暮らしの時はそれで済んでいたので、僕にはそれで間に合ってしまうし、無理して食べて苦しい思いをしている自分がさすがにバカらしく思えてきました・・・

おばさんは、「食べれなかったら遠慮なく残していいのよ」と言います。
「捨てるな捨てるな」って僕が言うので、僕が残したものは、おばさんが無理して食べるのだろうけど、それも違うと思うのです。
「必要な量を必要なだけ食べる」のがやっぱりあるべき姿なのだと思いますので・・・

「捨てるな捨てるな」って言ってても、鍋作ってくれた時に、僕は一晩しか箸をつけていないのに、大量に捨てられていたことは相当ショックでした・・・

一番ショックだったのが、おばさんが家を開けているときに用意されていた食事・・・
一目見て明らかに食べきれないほどの量が用意されていました・・・
もちろん食べきれませんでしたが、それがどう処理されたのかは僕にも分かりません・・・

この時、おばさんの基準は、「足りないということが絶対に無いように、大分大目に食事を用意する」ということしか無いんだなと思いました。

これだけ僕が訴えても分かってくれないのは、僕を信じてくれていないってことだと思います。
飯の量を減らしたり、家のことで僕に何か面倒なことをさせると、僕の機嫌が悪くなると思っているんだと思います。
こうやって子供が親に信じてもらえないと、きっと子供は親から離れていきますよね。

実際に、僕も腹が立つし、おばさんにはっきりときつく言ったりもします。
娘さんの現状は、おばさんの子供の育て方や子供への接し方から発生したはっきりとした因果だと思えるので・・・

明日のシンポジウムで使用される冊子には、「開放系」と「閉鎖系」の話が載ってました。

「開放系」は、どこかにまだフロンティアは存在していて、資源は無限にあり、個人単位で好きなだけどんどん使って全く問題なしというどちらかというと楽観主義的な考え方です。
アメリカの風潮がまさにそうですが、日本もそうなんです。

「閉鎖系」は、資源は有限であり、ある単位の中で、細々と、それらをやりくりしていかなければならないというどちらかというと悲観的な考え方です。
北欧諸国などがそうで、鎖国をしていた徳川幕府なんかがそうみたいです。

おばさんの食事に対する考え方は、間違いなく「開放系」の考え方です。
これが、一家庭で起こっていることだけに過ぎないなら、確かに、そんなに大きな問題にはならないと思います。
でも、それが日本国民全体の総意であるとしたら、大変なことになりますよね?
というか、そういった意味では、もう既に大変なことになっているんだと思います。。。汗

おばさんがしてくれること、、、それらはすべて「僕の為」のつもりかもしれないけど、実は、それらは、全体的に見れば、僕を含めたすべてを犠牲にし得る行為なのかもしれません。

そう考えると、僕は、おばさんがしてくれることが素直に喜べないし、感謝出来ないのです。
皮肉にも、「何不自由なく暮らさせてあげたいと願い行動するおばさん」の家に、「何でも自分でしたいと願い、しかも贅沢をすることが素直に喜べない」甥が来てしまった形です・・・

僕の体験談を交えて以上に書いたことは、すべて環境問題に直結することだと僕は思っています。

※説明が全然足りませんでしたが、この日記では、ただおばさんを批判したいからではなく、こういったちっちゃな積み重ねが、多くの人の間・沢山の場面で行われていて、それが今の環境問題や食糧危機に発展してしまっているのではないか?ということを訴えたかったのです。