
オレゴンにいた時は、どうしてあんなに生き生きとしてられるんだろうってずっと不思議に思ってた。
だけど、何となくその訳が分かってきた。
日本に限らずだとは思うけど、日本って、善いことをするのに、ものすごくハードルの高い国なんだ。
自分にはどうしようも出来ない空気が充満していて、僕はそういった空気にモチベーションを奪われてしまう。
もちろん、そんなに弱い自分なのがまずは問題なんだけど、それを自己責任で済ませることはとてもできないと思う。
まだまだ不十分だとは思うけど、その空気がどういうものなのかをまとめてみた。
善いことをするのに、犠牲的精神を求められる
僕はこの空気がたまらなく嫌だし、僕を含めた多くの日本人の無気力感や無関心を助長していると思う。
元々善いことをするんだから、自分たちの利益も追求したっていいじゃないか。
NPOでさえ、未だに、従業員が給料をもらうことに疑問を持つ人がいる。
お金や名誉など、何も見返りを求めずにNPOのような事業を興せと言ったって、明らかに無理があるでしょ。
仮にあなたが出来ても、他の大部分の人には出来ない。
善いことをしていても、けっこうな確立で偽善のレッテルを貼られる。
どんなに善いことをしていても、個人的な利益が見え隠れしただけで、人は離れて行く。
何で、善いことをするのに、そんなにハードルを上げるのか、僕には理解出来ない。
そもそも犠牲的精神はベストではない
そもそも、犠牲的精神は、美しく見えるだけで、ベストでは全くない。
まず、自分が犠牲になる時点でマイナスになる。
自分も他者も十分に利益が得られてこそ、ベストの結果になる。
その為には、「個人的な利益」も外しちゃいけない。
それをも持たせないように圧力をかける「空気」は、社会にものすごく有害になる。
どんなに善いことをしている人でも、気に入らなければ潰される
日本は、多くの人が認める通り、「出る杭は打たれる」社会。
どんなに善いことをしていても、「出る杭」である限り、打たれるリスクがある。
驚くのは、同じ日本人が世界的に活躍してても、日本国内で気に入らなければ、タブーにしてでも潰そうとするところ。
自爆もいいところだけど、自爆してでも自分の気分を晴らそうとするパワーはものすごい。
それは、物理的な暴力ではなくて、それ以上に恐ろしい「空気」という暴力で起こされる。
フロイトはかつてこう言ったらしい。
「無知は、知の怠慢ではなく、知ることを拒絶する膨大なエネルギーの結果」
僕も例外無く、その空気の一部になっているときは、この場合の膨大なエネルギーの一部かもしれない。
風が吹くだけで名声は地に堕ちる
ただ、そういう空気を放置していると、生きたまま心が窒息死してしまうかもしれないという危機感は感じてる。
建設は死闘、破壊は一瞬
まさにその通りだと思う。
ただ、自業自得の部分があったとしても、外的な圧力であっという間に壊滅させられる例は少なくない。
そういう時は、決まって、ポジティブな側面は封印され、徹底的に全否定される。
いろんなことに尽力して、尊敬され、有名になった人でも、空気が風となって吹けば、裏を返したように批判を浴び、叩きのめされて名声は地に落ちることがある。
最近のみのもんたさんの騒動がいい例だと思う。
BLOGOSで掲載されたこの記事を読んだ時、僕も鳥肌が立った。
みのもんた問題にみる日本の特殊性
http://blogos.com/article/72546/
善いことをするのにリスクが大きすぎる日本
そして、とどめは、こういう空気で抑圧されている人がいても、日本ではリスクを冒してまで声を上げる人が少ないこと。
大部分の人が、事態が好転するまで様子見をする。
僕も、正直、こんな状況じゃ怖くて怖くて、善いことをする気にも声を上げる気にもなれない。
だから、僕も例外無くその破壊的な空気に迎合してしまっている一人と言える。
そもそも、善いことをするのにリスクが付きまとうのってどうなのか…
オレゴンでは感じたことがない「空気」が日本には存在する
はっきり言って、オレゴンに住んでいた時は、こんな空気を感じたことは無かった。
みんなそれぞれ勝手なことをやっていて、いちいち人のやってることを気にしない。
キリスト教の国とはいえ、日本のように善いことをするのに犠牲的精神を求められることもなかった。
アメリカの大統領でさえ、市民の身勝手な空気の圧力によって潰されることなく、任期を全うしているでしょ。
アメリカは見習うべき国とはとても言えないけど、そういう空気のあるなしでこうも違うのかと痛感した。
これから日本に住み続けるなら、避けては通れない障害なのは間違いない。
この空気に逆らうのは自殺行為かもしれない。
だけど、自分はこの空気に飲まれず、この魔物のような空気で苦しんでいる人たちのために行動していきたい。