平等・公平なんてあり得るのか?

世界には、平等じゃない身分や境遇、公平じゃない扱いなどが渦巻いていますよね。

終わりがないんじゃないかと思うくらい、多くの人が果てしなく不平等感や不公平感に苛まれながら生きていると思います。

例外なく、僕もその一人と言えると思います。

例えば、裕福な都市でさえ、クレジットや住宅、交通へのアクセスやなどの不平等により、命の危機に晒されている人が沢山います。

貧しい国や紛争が起こっている国はもっと悲惨です。

前の日記で、中東のパレスチナ・ガザ地区で起こっていることに関する署名の呼びかけをしましたが、現地の人は今この瞬間にも死の危険がある状況でかろうじて生きています。

中には、既に軍の攻撃に巻き込まれて、命を落としてしまった人もいるでしょう。

悲惨な状況は、ガザ地区だけでなく、世界のあちこちで起こっています。

もちろん、日本でも。(僕が知っているこの世界で起こっている悲惨な状況は、全体の1パーセントにも遠く及ばないと思いますが)

有利な立場にいても感じる違和感

僕は、人生の大半を安全な場所で、生活に必要なものへのアクセスには不自由せずに、死の危険とはほとんど無縁な状態で生きてきました。

今でもアメリカの中でも治安の良いオレゴン州ポートランドで、やはり死の危険をほとんど感じずに生きています。

この時点で、果てしない不平等、不公平が発生していますよね。

この不平等感、不公平感をどう考えるべきなのか、どう説明すべきなのかについて、僕なりに苦悩してきました。

もちろん、今でも完全な答えは出ていません。

ただ、僕は自分自身が正義なのかなんて分からないけど、生活レベルのことも含め、自分の扱いが平等でなかったり公平でなかったりした時は、ものすごく違和感を感じ、どうすれば平等・公平な状況を実現出来るのかを自分なりに考えてきました。

それは、自分が不利な立場である場合はもちろんですが、有利な立場にいる場合でも違和感を感じます。

なので、やはり、自分が死の危険と無縁ののほほんとした暮らしをしていることにも違和感を感じます。

「命の重さは同じ」だとしたら、恵まれない地域の人の身代わりになれば良い?

命の重さは同じだとしたら、この状況のギャップをどう考えればいいのでしょうか?

ある時、こう考えたことがありました。

「貧しい国で今にでも失われてしまう人の代わりに自分が死ぬこと。」

僕はそれでもいいと思いました。

僕は、仏法に出会ってから、例外なくすべての人に無限の可能性があるということに目を向けるようになりました。

だから、悲惨な状況下で失われていく命の代わりに、自分が死ぬことはある意味で平等で公平です。

でも、それで問題は解決するかといえば、そうではないですよね。

恵まれた環境にいながら「平等・公平」を実現する行動とは?

そこで、僕はこう考えました。

平等・公平でありながら、価値的な方向に持っていくこととは、「恵まれた環境の中で自由に動ける人が、真の平等・公平とは何かを追求し、身を惜しまずに死ぬ気で尽力していくこと」ではないかと。

この場合、頑張りすぎて死んでしまったとしても全く文句は言えないし、むしろそれも本望であり、悔いは無いと思える生き方をするということです。

ただ、死ぬ為に頑張るのではなく、むしろ、使命を果たすまで死ねないので、あらゆる事故や予期しない出来事から自分の命を守る為に、革命的な注意をするんです。

この生き方こそ、人間が最大のパフォーマンスを発揮できる生き方なんじゃないかと僕は思います。

もちろん僕自身がそんな生き方が出来ていないんですが、いつからかそう考えるようになってから、自分のライフスタイルや行動が一変しました。

別に、例えば、紛争地域に行って直接支援をする訳じゃないんですが、今いるこの場所から世界へ波及していくように、活動範囲は狭いけど、その範囲内で動き回るようになりました。

今までのほほんと生きてきた時間が長すぎて、自分の中で革命を起こすにはまだまだ時間がかかると思うけど、死ぬ気で価値的に生きるという生き方に加速度的に近づけていくつもりです。

「生まれた境遇や環境の違い」をどう捉えるか?

平等・公平について考える場合、考えるべきことがもう一つあると思います。

それは、生まれた境遇や環境は人それぞれ違い、どうしても不平等感・不公平感を感じてしまうこと。

僕は、幸い(なのかどうなのか、本当のところは分かりませんが)、それなりに裕福な家庭に生まれ、ほとんど何不自由なくのほほんと生きてこられました。

いろんな人から話を聞いて、生まれた境遇や環境の違いに、今でも唖然とすることが多いです。

この生まれた境遇や環境の違いは、不公平や不平等でしかないのでしょうか?

昔は、僕が幸運だったからこそ、不幸な人を救わないといけないと思って何かしようともがいていました。

でも、その人自身が、生まれた環境や境遇を引きずり、何かしらの不平・不満を抱えて、中には親を恨み続けて生きているとしたら、その時の僕の力ではどうしようもありませんでした。

何故なら、僕自身が、その生まれた環境や境遇のギャップを、不平等・不公平としか認識していなかったからです。

生まれた境遇や環境を平等・公平にするヒントは「仏法」にある

同情ではやはり人は完全に救えない。

でも、僕は仏法に出会ってから、そういった生まれた環境や境遇についても、完全に平等であり公平であると考えられるようになりました。

仏法では、過去世、現在世、そして未来世が永遠に続くという「三世永遠」を説きます。

生命が永遠に続く中で、宿業(カルマ)も、まるで銀行の預金口座のように、適切に引き出さない限り、残り続けるんです。

だから、過去世で宿業の残高が残っていると、それが生まれる時の境遇や環境に現れるんです。

つまり、こういった境遇の違いや環境の違いを引き起こすのは、その人自身であり、全責任はその人自身にあるんです。

だから、死んだら無になって、宿業もさっぱり精算されるなんて都合のようにはいかないのかもしれません。

未来世の自分の為に、僕達はこの現在世に厳然たる責任があるのかもしれません。

この概念は、僕に革命的な思想の変革を引き起こしました。

「三世永遠」を捉えずに、生まれる時の不平等・不公平をなくすことは出来ないと思ったからです。

(もし、他の方法でこの不平等・不公平をなくすことが出来るなら、是非教えて欲しいです)

宿命を転換するだけの力が誰しも備わっている

同情を超えた真の支援こそが、今最も求められているのではないかと思います。

それは、「愛」よりももっと深い「慈悲」だと思うからです。

今でも、本当に多くの人が自分の境遇や環境に不平不満を抱えながら、幸せになり切れずに、中には絶望の中に、死と隣り合わせの中にいると思います。

同時に、心ある人でも、同情から自己犠牲的に活動を続けていて、思うように結果が出せずにもがいている人も沢山いると思います。

例外なく、僕もそのどちらの状況にもいる可能性があります。

でも、少なくとも、自分の生まれた境遇や環境、自分に降りかかってくる災難や苦悩などに影響されて立ち止まってしまうことが劇的になくなりました。

そして、同情でというよりも、その人の宿業を乗り越えさせる為に、宿命を転換させる為に働きかけるようになりました。

そうした働きかけによって、その人が幸せの軌道に向かうことこそが、僕自身の幸せに直結すると僕は信じています。

だから、どんな災難に見舞われても、苦悩を強いられても、一時は退いてしまうかもしれないけど、絶望せずに、一筋の希望でも見失わずに必ずまた立ち上がって前進し続けるでしょう。

真の平等・公平をこの現実世界に実現させるに、それぞれでまだまだ気が遠くなるほどやるべきことがあると思います。

この問題から目を逸らし放っておくことは、結局、自分にとって損でしかないと思います。

宗教的な概念も必ず絡んでくると思いますが、みなさんにも、それぞれで真剣に考えて欲しいです。