先日、BLOGOSにて投稿されていた「選択肢が多過ぎる現代社会は不幸でもある」 http://blogos.com/article/53634/(筆者:佐別当隆志/ ITmedia オルタナティブ・ブログ)という興味深い記事を読んだ。その記事によると、「選択肢が多過ぎると選ばなくなる」という傾向について、TEDでのスピーチで紹介された例を交えて説明されていた。

あるスーパーは品揃えが豊富で有名で、観光客が来るほどの人気でした。そこで実際に、選択肢が多い方が売上が上がるのかジャムの試食で実験をしました。 24種類のジャムが並べられていたときは買い物客の60%が試食しましたが、6種類のときは40%しか試食されませんでした。しかし、24種類のジャムの 場合、買い物客の3%しか購入せず、6種類のジャムの場合、買い物客の30%近くが購入しました。

つまり、種類は3倍も多くあるのに、1/10のお客しか商品を買わなかったという結果になったそうです。まさに、「選択肢が多過ぎると選ばなくなる」ということです。この結果から、「選択肢が多いことは幸せなのか?」という問いに大きな疑問符がつくことが分かります。
それに、選択肢が多すぎると、その中から選ぶ(消費する)だけに甘んじて、創出する(生産する)側にはなりにくくなるかもしれない。僕たちは常に様々な選択をしながら生きている訳だけど、その一つ一つの選択の質って、どれだけ生産的で能動的になされたかによるのだと思う。
「自由」に対する捉え方によって「選択の動機」も変わってくるかもしれない。「選択肢の多さ」で自由の度合いを測るなら、「自由は与えられるもの」という受け身で消費者のような姿勢になる。逆に、「自由は勝ち取るもの」と捉える場合、選択肢の多さには依存せず、生産的で能動的に選択肢を勝ち取っていく姿勢になる。
現代の日本のような「選択肢の多い社会」でも、後者のような姿勢で生きることは出来る。だけど、その「選択肢の多さ」は、僕らを惑わし続けることになると思う。その中でも、裕福な家庭に生まれた人にとっては、その誘惑はさらに大きなものになるはず。
裕福であればあるほど、数多くある選択肢の中から選ぶことに甘んじてしまうようになりやすい。ある意味、それはカゴの中に閉じ込められた小鳥のようなものだと思う。煌びやかで豊かな生活に見えても、果たして、それは幸せと言えるのだろうか?
そういった意味で、自分がどんな動機で選択肢を広げたり狭めたりしてるのかを観察して見ると、案外、面白いと思う。
ある人は、「常識」という枠で選択肢を狭めているかもしれない。また、ある人は、冒頭の例のように、選択肢の多さにうんざりして何も選ばなくなるかもしれない。逆に、極貧で選択肢などほとんど持てないなかから、新たな選択肢をこじ開ける人もいるかもしれない。
どのパターンが選択肢の質が高いと言えるかは断言出来ないけど、自分のしてきた選択、これからしようとしている選択を見つめ、その動機から観察してみて、それぞれの「選択の質」を自己評価してみる。一人一人の「選択の質」の向上がこの社会に及ぼすインパクトは、予想以上に大きなものではないだろうか。