何となくだけど、オキュパイ運動のことをつぶやいたり記事にしたりすると、他者のことをせめてるだけで「自分が変わる気がない」という風に取られることが多い気がする。僕が思うに、何もしないよりはずっとマシのはずだし、「自分が変わった結果として」抗議運動をするという場合もあると思う。 

個人的には、オキュパイ運動を全面的に支持している訳ではない。ただ、良い面は見逃さずに讃えたいし、あれだけの若いエネルギーをより良い方向へ向かわせるために精一杯力になりたいと思っている。だから、シニカルに全否定して台無しにだけはして欲しくない。 

ボイコットとかストライキとか不買運動などの抵抗活動は、それらに「甘んじてしまう」と思った通りの結果が得られないかもしれないけど、「やむを得ず」そういった運動の選択をするなら効果的だと言えると思う。そういう選択を迫られる場面はいくらでもあると思う。 

「戦争」に関しても、治療策として必要な場面はあり得る。例えば、コスタリカが直面した1948年の内戦。約2000人の犠牲と引き換えに、コスタリカは、民主主義と軍隊を廃止する平和憲法を手に入れた。この犠牲は、こんなに切迫する状況になるまで放っておいたみんなの責任ということ。 

そういう切迫した選択を迫られるまでに手を打つことが最も大切。「治療」より「予防」が大事ってこと。それをしてこなかったなら、抵抗活動をする人たちを全否定する資格なんてないと思う。将来の不確実なことに対して予防的な行動を継続的にしているかが問題なんだ。 

今この瞬間で言ったら、既に手遅れなことなんて山ほどあるから、応急処置的な治療ももちろん必要になる。それが抵抗活動などに当たるかもしれない。それと同時に、将来の不確実性に対する予防的な対応も不可欠。それは「家族」という極小の共同体も含めた様々なレベルでの「政治活動」に当たると思う。 

治療も予防もどちらも必要だけど、どんな時も忘れてはいけないのが「予防」だと思う。予防を怠れば怠る程、結果的に治療の必要性が発生する。 

ネット上で議論していて、していた議論の内容とはあまり関係ない「個人的な覚悟」を聞かれることがある。例えば、「今この瞬間に、子供に向けて誰かが銃で撃とうとしている、あなたならどうする?」とか。そんな瞬間のことより、それをどうやって未然に防ぐかを議論した方がずっと価値的なはずなんだ。 

社会変革に対する本当の覚悟って、切羽詰まった瞬間への反射神経というより、手遅れなことに対して無力な自分に絶望することなく、地道とはいえ着実に将来の不確実性を一つずつクリアにしていけるように行動し続けていくところに真価が問われるべきだと思う。