僕達創価学会員は、どこかの神様を拝んでいる訳でも、池田大作という人物を拝んでいる訳でも、日蓮大聖人を拝んでいる訳でもありません。

もしそうだとしたら、僕だって最初っからやってません。

祈りをぶつける対象は、どこかの神様や特定の人物でもなく、あくまで「自分自身」なんです。

このご本尊様というものは、「南無妙法蓮華経」という文字の書かれたただの紙切れです。
特定の仏像があったりする訳ではありません。

その紙切れを鏡にして、自分自身を映し出し、祈りによって自分を引き出すんです。

僕は、大学の頃に、アカデミー主演女優賞受賞者であり、作家であり、リベラリストであり、ダンサーであり・・・のシャーリー・マクレーン著「アウト・オン・ア・リム」を読んで、それから、考え方や生き方がかなり変わりました。

この本は、精神世界の本なのですが、一番大きかったのは、「神様は自分の外にはいない、一人一人の魂に宿っている」という事でした。

こういう風に思えなかったうちは、常に、「誰か(神様?)に見張られているから悪いことは出来ない」という超漠然とした考えがあって、なかなか身動きが取れなかったんです。

そういう風に感じたことってありませんか??
僕は、単純に、悪い事をすると罰が当たるとばかり思ってました。

これって、実は、すごく宗教的な考え方だと思うんですよね。

日本人は、自分で無宗教だと思っていても、実は、どこか宗教的なものに支配されていて、その呪縛から抜け出せていないところがあるのではないかと僕は思ってます。

ここで一番問題なのは、良い事、悪い事、正しい事、間違っている事とかって、実は、誰も判断出来ないって事です。

多くの場合、ここで良し悪しを判断するのは、誰かの作った常識とか倫理とか道徳的なものになってしまいます。

だから、実は、物事の良し悪しを、例えば、道徳的判断に任せる事って、すっごく危険な事なんです。

例えば、親が子に、「人を殺してはいけません」って言って、子供に「何で?」って聞かれて、道徳的判断で「ダメなものはダメなの!分かった!?」っていうやり取りがされたとします。

これで、子供が本当に納得するって事は考えられませんよね?

親だって、「人を殺してはいけない理由」を、自分で導きださなければならないのです。

そう思ってから、僕は、何かの決断が必要な場合には道徳的な判断は持ち込まず、自分自身を見つめ、自分の魂が向かう方向に進むように心がけるようになりました。

時には、人は過ちを犯します。
過ちを犯さないと、それが過ちだという事に気づけない事だってあると思うんです。
それは、犯すべくして犯した過ちで、その人が真理に向かうためには必要な事だったのだと思います。

「内道」と「外道」とありますが、シャーリー・マクレーンの精神世界は、神や仏が一人一人の生命に宿っているという「内道」にあたります。

シャーリー・マクレーンの精神世界と日蓮仏法は、その点で激しく共鳴しているのだと思います。

いろいろ脱線しましたが、言いたい事は、すべての最終的な決断をするのは、あくまで『自分』なんです。

これって素晴らしいと思いませんか??
誰でもそうありたいと願っているはずです。

僕は、誰かを洗脳する為に書いている訳ではないです。
みんながみんな、そうであって欲しいだけなんです。

どこかの神様やカリスマ、メディア、噂話などに惑わされてしまうのは、既に、宗教的な意味での「外道」の考え方が染み込んでしまっているからではないのかな?と思ったりします。

このご本尊様という鏡は、自分を素っ裸にしてくれます。
心の中まで素っ裸になった自分が最適な決断をしてくれます。

僕は、自分自身にほとんど疑いが無いので、この1年ちょっとの間、ほとんどの局面で、自分にとって最適でクリアな答えを導き出す事が出来ました。

「何だよー!こんな事だったのかよ!!!」って思わず叫んでしまうくらいあっさりと・・・
相当の時間の節約になりました。

ご本尊様を生かすも殺すも自分次第なのです。

そこには、どこかの神様も、池田先生も、日蓮大聖人でさえも介入する事は出来ません。

だから、何か一つの考え方に洗脳されたりってのがある訳ないんですよ。

しかも、これはまた今度詳しく書こうと思いますが、これをしている限り、究極的には、人は、同じ場所に辿り着き、同じ事を悟ります。

真理は一つだからです。

そこには、究極的な平和哲学、究極的な幸福哲学があるという事は間違いないでしょうね。
僕にも全然見えていないので良く分かりませんが・・・

これは、誰かの本で読んだのでもなく、誰かから聞いた話でもなく、僕自身が導き出した答えです。
だから、もしかしたら間違っているかもしれません・・・汗

明日は、ご本尊様と同じくらい重要な「お題目」についてのお話をしようと思います。