捻じ曲がった思考の裏には、捻じ曲がった社会構造がある。犯罪を犯した個人のせいだけでは決してない。

通り魔を量産しているのは僕たちの社会なんだ。そして、その社会を形成してるのは、僕たち一人一人。通り魔になった個人を責めるだけなら、その人は当事者意識が足りないと思う。

「犯罪を犯した個人を許さない」だけで終わらすのは、「自分は関係ない」という言葉の別の表現なのかもしれない。そうである限り、その犯罪者が死刑になっても、別の犯罪者が次々に現れるだけ。

「東電を許さない」っていうのもおなじかもしれない。東電をぶっ潰しても、僕たちが責任の一端を共有しているという意識がなければ、別の腐った組織が現れるだけ。スケープゴートを用意してしまうのは、自分への批判をかわすためなのかもしれない。

大阪の通り魔事件のニュースを見てて、アナウンサーが「あまりにも身勝手な思考」と表現してたけど、その犯人個人だけのせいのように報道してるそのアナウンサーもひどく身勝手に思えた。

こういうことを言うと、「犯人をかばってる」とか、「社会のせいにしてる」とか思われがちだけど、もちろん、犯罪者個人の責任は重大だし、社会という実態のあやふやなものに矛先を向けてる訳でもない。つぶやいている先は、自分のことを棚上げしているすべての人たち。

こういう事件が起こるたびに思う。未然に防ぐためにもっと行動出来たんじゃないかって。誰にでも居場所のあるコミュニティを作ってあれば、そんな凶悪な犯罪者は生まれなかったかもしれない。そういった点で、自分にも責任があったと思う。

大阪の通り魔事件について、当然、誰もが犯人個人に重大な責任をがあると思っているはず。その上で、社会的な要因を考えると思うんだけど、だからといって、犯人個人の責任の重さを軽く見積もる訳ではないと思う。

ただ、犯人個人にだけ矛先を向けるのはもちろんだけど、、実態のあやふやな「社会」というものに矛先を向けるのも、「自分は関係ない」というサインなのかもと思う。