彼女は争いを呼ぶだけの厄介者なのか?

secret #4

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果たして、彼女はただの争いを呼ぶだけの厄介な女性でしょうか?
ずっと書きたくて書けなかったことがあるんですが、この期に書きたいと思います。

ポートランドでは、ポートランド美術館の入場料が毎月ただになる日があって、ここ数ヶ月は毎月観に行っているんですが、その展示物の一つの映画にとても考えさせられました。

その映画は、19世紀くらいのヨーロッパの古い町並みが舞台で、一人の世界に閉じこもっていたようなどこかキチガイのような女性が主人公です。その女性は、アパートに囲まれた狭い公共の場に入っていきます。

人々は楽しそうに日常会話を楽しんでいます。映像の中では、その女性は同じ所を行ったり来たりして一人ひどく浮いているんですが、誰も彼女に気づかず、それぞれで会話を続けます。

その女性の行動がエスカレートするにつれて、徐々に彼女に気づく人が現れます。最初は、みんなが野次を飛ばしながら彼女のことをからかっていたのですが、驚いたことに、次第に彼女に見方する人も現れ始めます。

そして、遂には、彼女に見方する人と敵対する人が半々くらいになり、聴衆の中で敵対する者同志で激しい言い争いが始まります。

最後には、混沌とする場を横目に、彼女は静かに去っていきます。

彼女は、確かに、この争いを引き起こした張本人と言えます。ですが、果たして、彼女は争いを呼ぶだけの厄介者なのでしょうか?

個人的な見解に過ぎないのですが、この映画のメッセージは、「彼女はただのきっかけに過ぎず、争いの種は既に人々の中に植え付けられているということ」だと思いました。人々が争いの種を持っている以上、他のきっかけでも争いが引き起こされる可能性があるということ。

視点を変えてみると、彼女がこの段階で人々の争いの種を引き出したことによって、実際の争いの規模が小さく済んだかもしれない。そう考えると、彼女は、「厄介者」どころか、「救世主」のようにも見えてきます。

現代の日本社会は、極端に他人との争いや衝突を恐れて、私的な領域を広げ、プライバシーを盾に他人との干渉や交流を制限する傾向にあります。確かに、日常的なご近所さんの間での小さな衝突は少なくなりましたが、予期しないような凶悪犯罪が起こるようになりました。時折、キレて爆発するのです。

その爆発の行き着く先は、「戦争」なのかもしれません。戦争も、例外無く、人々の中の争いの種が摘まれず、そのまま放置され続けた結果でしょう。この争いの種は、それまでの段階で摘み取られないといけないはずです。日常レベルで処理されることが理想でしょう。

その為には、人々が他人とのトラブルに寛容になる必要があります。ましてや、この映画の女性のように、早い段階でその争いの種を人々の間に引き出してくれる「厄介者」にさえ感謝するべきなのだと思います。

いつからか、僕は自分の座右の名を「取り返しのつかないトラブルを未然に防ぐ為のトラブルメーカー」としました。僕の目指すまちづくりは、人々の間の日常的な衝突を復活させること。間違いなく「厄介者」のレッテルを貼られるでしょうが、僕はあくまで必要なことをしていきたい。

人々が、この映画の女性を「厄介者」や「キチガイ」と見るか、それともむしろ「救世主」や「革命家」として見るか、それは社会の健全性や将来性を計るある種のバロメーターになるのかもしれないなと思いました。