近々、衆議院の解散総選挙が行われる可能性が高くなってきた。僕は政治のスペシャリストでも何でもないけど、一つ言えることは、「国民が変わらなければ、どこが政権とっても一緒」だということ。
個人的には公明党を支持しているけど、例外なく、たとえ公明党が政権をとるようなことがあったとしても、国民が変わらなければ、結局はそう大きく変わらないと思っている。民主国家において、一番肝要なのは、政党でも議員でもなく、僕たち国民自身だと思っているから。
日本では、政治的にも首相が毎年変わるような危機的な状況が長く続いている。2009年の政権交代に、多くの人が民主党に期待したが、結局、首相が毎年変わる流れは止まらず、再び、政権がどこか他に移ろうとしている。
そんな中で、未だに「国民の責任」というのは、どこかタブーになっている気がする。もう、さすがに、僕たち国民自身が変わらなきゃ話にならないということに気づいてもいいのではないかと思う。
民主国家の政治において、「国民の当事者性」は最重要項目
「政治家の多くが果たすべき役割を果たしていない」というのは間違いではないと思う。だけど、同時にそれは「僕たち国民が果たすべき役割を果たさなかった結果」だということになるはず。
大して行動もせずに偉そうに政治を予想する人が沢山いるけど、いくら自分の予想が当たって喜んでみたって、無能な政治家が好ましくない社会を勝手につくるだけ。結局、自分には損でしかない。いくら、そういう政治家を批判したって、残念ながら、それでも民主主義の範囲内の結果でしかない。
つまり、それは、僕たち国民が招いた結果だということ。民主国家では、僕たち国民が行動をしないリスク、役割を果たさないリスクは、当然、存在する。社会が住みにくくなることも、無能な政治家が好ましくない政策を進めることも、自分たちが招いたリスクの結果でしかない。
リスクを冒すということが最も難しく重要なのが、実は「今」という時?
民主国家に一番必要な要素とは、政治家や首相のリーダーシップではなく、「国民の当事者性」だと思う。国民がそれぞれどれだけリスクを冒して行動出来るか。
もちろん、「国民の当事者性」を突き詰めると、極端な話、暴力によるテロ行為まで発展し得る。実際、この世界には、そういう暴力による抵抗を検討せざるを得ない状況に陥っている地域はある。そこまで状況が悪化してしまったら、僕らはあまりにも無力だろう。
ネット上で炎上するような議論をしていてよく聞かれた質問が「悪人が子どもに向けて今にも銃を発砲しようとしているとしたら、あなたならどうする?」というようなもの。僕の本気度とか覚悟を聞きたかったのだと思うけど、僕は、「そうなったら、恐らく何も出来ない」と答える。
僕は、そういう風な質問をする人が、いったい何を求めているのか分からない。そういう選択肢のないような究極的な決断を迫られている時より、まだ選択肢があってみんなが安心しているうちに、進んで冒すリスクの方がよっぽど重要のはず。つまり、予防のための行動。
そして、今の日本。選択肢はどんどん限られてきてはいるけど、まだ多少は選択肢が残されている。多くの国民にとって、目に見えて自分の生活や命を脅かすような脅威はまだ存在しない。こういう時が一番難しいときであり、重要なときだと思う。なぜなら、ある一線を越えてしまったとき、僕たちはあまりにも無力になってしまうから。
僕たちに、今、求められる行動とは?
先ほども言った通り、暴力による抵抗でしか解決出来ないような状況は確実にある。そうなってしまった時にどうするかを考えるより、そうならない方法を考え行動するべきだ。自分の将来の生活や生命への具体的なリスクを考えれば、今、行動することにより嘲笑されたり嫌がられたり罵られたりするリスクの方がはるかに軽いはず。
僕たちが冒すべきリスクは、何も「デモに参加しろ」とかそういう抵抗活動では必ずしもない。「必ずしもない」ということは、そういう必要性も認めているということ。だけど、もっと重要なことは、社会に充満した政治アレルギーの壁をぶち破り、イデオロギー的な衝突も恐れずに、自分の足下から対話運動を興すこと。
自分を棚に上げずに、支持する対象を定め、体を張ってサポートすること。国民の義務は、毎回顔ぶれが変わる候補者の中から投票する人を選ぶだけではない。まして、自分に与えられた「一票」だけが自分の影響力ではない。支持する政治家がカバー出来ない範囲を補完したり、対話運動によって票を積み上げることもできる。
当事者性を持つ国民間でこういった運動が活発になってはじめて、ボトムアップ効果により政治家や政党が育ち、結果的に政治が安定してくるもの。その逆では決してない。そこを国民が勘違いしていたり、目をそらしている限り、政治家や政党も変わらず、結果的に政治も変わらない。
その過程では、国民間のイデオロギーの衝突が深刻な結果をもたらすかもしれない。だけど、それでも、放置しておいた先に起こる最悪の結果よりはずっとマシのはず。元々、その国民間のイデオロギー的な衝突による顛末も、これまで問題を放置してきた自分たちの責任でしかない。対話を仕掛けて場とか空気を乱した側だけの責任ではないということ。
「厄介者」が「救世主」となる?
以前、「彼女は争いを呼ぶだけの厄介者なのか?」という記事で、ふらっと現れ、街中の裏路地で楽しそうに会話をしていた人たちの場を二分させ、激しい言い争いを始めさせた「厄介者」の女性のフィクションのストーリーについて書いた。普通だったら、彼女は「キチガイ」として、結果的に排除されるだろう。
ただ、そのストーリーは、「厄介者」に対する別の視点を示唆していたように思える。それは、厄介者がいるからこそ、潜在的に存在する問題があぶり出されるということ。彼/彼女らは、もしかすると、「戦争」などの取り返しのつかない未来のイベントを未然に防ぐことになるかもしれない。そういう視点で見ると、一見「厄介者」に見える存在が、結果として「救世主」となることもある。
数か月前に、国際社会というスケールでこの「厄介者」の役を演じたのが、最近、都知事を辞めて新党を立ち上げた石原慎太郎。彼は、尖閣諸島の問題で、かなりのスケールで論争を引き起こした。彼の判断が正しかったかどうかはさておき、その論争のきっかけを作るのに成功したことは間違いない。大きな痛みもともなったが、大きく前進した部分もあったと思う。
そんなに大きなスケールでなくてもいい。国民それぞれが、自分の近所で、「厄介者」のレッテルを張られることを覚悟で、政治的な論議を興すきっかけになれれば十分。当然、それなりの痛みはともなうはずだけど、未来に待ち受けている桁違いの痛みよりはずっと軽く済むはず。
民主主義をしっかり機能させれば鬼に金棒!?
僕が目指す政治の形とは、例えば、もはや公明党の存在意義がなくなるほどに成熟した民主主義国家だ。元々、誰も困らないほどに政治が機能していれば、宗教団体が政治に関わる必要なんてなくなる。逆に言うと、その必要性を生んでしまっているのは、僕たち国民だということ。
強制的に締め出すのではなく、民主主義を機能させることによってコントロールすればいい。宗教が政治に関わって欲しくないなら、民主主義をしっかりと機能させればいいだけのこと。在日外国人についても同じ。在日外国人に日本を乗っ取られたくないなら、民主主義をしっかりと機能させればいいだけ。
TPPも同じ。国民が賢くなり、民主主義がしっかり機能してれば、何も心配することはない。国民間でしっかり議論、審議、ある程度の合意まで行きつければ、他国との交渉で致命的なほど失敗することはないはず。仮に交渉で不利な立場に陥ったとしても、国民が消費者として賢くあれば、致命的なほど搾取されることはない。
もちろん、「民主主義が全く機能していない状態」では、何れも大きな脅威になってしまう可能性がある。なので、状況に応じて規制をかけてシャットアウトすることも必要。しかし、最終的に目指すところは、国民が賢くなること、そして、民主主義をしっかりと機能させることで、何が起きても柔軟に対応出来る能力を培っておくこと。
これから10年で僕たち国民がそういった能力を培っていけるか。それが将来の僕たちの生命線になってしまうと思う。「どの政党が勝つか」というより「僕たち国民がどれだけ当事者性を持って行動できるか」の方がずっと重要。僕も、自分のことを棚に上げて政局を予想するような態度は戒め、リスクを覚悟で行動して行きたいと思う。