今日は、「迷惑」についての連続ツイートをします。またいつものように方向性が偏っています。確かに、本当に迷惑な場面は沢山あるはずだけど、「過剰に迷惑だと思ってるだけで迷惑に当たらない場面」も結構あるんじゃないかと考え、この点に関連する過去のつぶやきを掘り出します。

迷惑(1)日本人は特にだと思うけど、僕たちは、「関わらないけど迷惑はかけるな」という無理な注文を平気でしていたりしないかな?

迷惑(2)現代社会は、「迷惑だ」とか「プライバシーの侵害だ」とかで、物理的にも精神的にも入り込みにくい領域が大きいけど、それはそれで、コミュニティの機能を台無しにするばかりか、自分が必要なときにSOSを出せなくなって、自分で自分の首を締めているようなものだと思う。

迷惑(3)日本はやっぱり、公共の場における汚さ、臭い、ノイズ、迷惑などに過敏すぎる気がする。それだけ、経済の機会や他の有用な機会を奪っているような気がする。そうさせているのは、恐らく僕ら市民の無言の圧力ではないかな。。。

迷惑(4)体験してみないと分からない事って沢山あると思う。巻き込んで体験させようとしても迷惑がる場合もある。それだけならまだいいけど、社会ぐるみでそれ以上踏み込ませない凄まじい圧力をかける場合もある。とことんぶつかり合って議論すればいいのにといつも思う。

迷惑(5)確かに、取り返しのつかないくらいの大爆発を起すまえに、周りに迷惑をかけても、小さな爆発をこまめに起した方がいいと思う。その為に、家族を飛び越えて、社会全体がそういった迷惑に寛容になる必要があるはず。

迷惑(6)道徳心は、机上で学ぶものというより、社会の中での人と人との交流によって、自然に心に刻まれ、培われるものなのだと思う。学校の道徳の教科書に、「人に迷惑をかけてはいけない」と書いてあったというだけで、それを鵜呑みにしてしまうのが一番危険だと思う。

迷惑(7)「人を助ける喜び」を、まわりに与えてあげること…日本人の多くがしている「人に迷惑をかけない生き方」っていうのは、他人にこの喜びを与える機会を閉ざしてしまうことだと思う。それはそれはとても寂しい社会だと思う。

迷惑(8)迷惑が迷惑で無くなることも有り得る。相手の行為を「迷惑」だと決めつけていたけど、実は迷惑どころか、ありがたい行為と感じ、後になってその人に「感謝」するようになることもあり得ると思う。

迷惑(9)釈尊は、衆生を成仏(「死ぬこと」ではない)へ導くために、文字通り、あらゆる手段を使った。その中には「嘘をつく」ことも含まれる。「迷惑をかける」ことも、「妥協させる」ことも「一時的に」あったと思う。これは、とっても重要なポイントだと思う。

迷惑(10)バスの中で、知らない人に何のためらいもなく「その帽子どこで買ったの?」って聞かれる社会も悪くないと思った。迷惑だと考える前に、「自分が必要な時に気軽に聞ける」という利点を考えてみる。

迷惑(11)ニューヨークに行った時、電車のなかで、突然スピーチを始める人がいた。キャンデー(m&m'sで一袋$1)を売るための宣伝だったのだけど、僕の乗っていた車両だけで8袋くらい売れていた。電車のなかであんなに当たり前のように売買が成立しているところを見たのは初めてだった。

迷惑(12)こうした電車の中での個人の商売でも、もしかしたら商売のニーズが一致することはあるかもしれない。路上でストリートパフォーマンスをしてチップを求める人たちについても、迷惑だと思わず育てていけば、街を楽しく保ってくれるありがたい人たちになるかも。

「迷惑」についての連続ツイートは以上です。そろそろみんな飽きてきたかなぁ…