ひとつ前の日記といい、みなさんは、僕がいよいよ学会精神に則り、他宗を厳しく批判し始めたとお思いかもしれませんね。
洗脳されたと思われても僕は全然構わないです。
ただ、僕は、必要だと思ったことを日記に綴り、語って行くだけなので。

今日は、じいちゃんの葬儀で思ったこと感じたことを書こうと思います。
ほんとに疑問だらけだった・・・
葬儀を通して、「なるほど、これが葬式仏教って言われる所以なんだなぁ」と思った。

人が亡くなると、様々な形式の儀式を経て、お坊さんにお経を読んでもらわないと、その人はあの世で成仏出来ないといった漠然とした考えを多くの人が持っていると思う。
そして、霊山への旅支度などと称して、様々なアイテムや形式や訳の分からない儀式が生み出されているように見える。
それもビジネスの為に・・・

現実に、僕が海外留学するのに一生懸命貯めている目標金額以上が、じいちゃんの葬儀で使われてしまった・・・
僕が会社に入社してから6年ほど、ボーナスはほとんど使わず、最近はかなり切り詰めて生活してやっと貯められる額が一瞬にしてなくなってしまうんだ・・・汗

葬儀が行われている間、かなり考えた。
「僕たちは葬儀をあげるために働いているのか?」って・・・

特に、納棺が終わって、死後49日の間に西方浄土へ向かう冥土の旅支度という場面で、白いさらしの経帷子(きょうかたびら)という衣類(?)を、故人の足、脛、手、額に被せるんだけど、僕にはこれがおままごとに見えた。。。

それを大人たちが大真面目でやっているのにも鳥肌が立った・・・
まぁ、場の雰囲気で、僕もやらざるを得なかったんだけど・・・汗

罰が当たるかもと思ってやっている人もいるかもしれないし、あまりにも日本に根付き過ぎて疑問も持たない人もいると思うし、おかしいと思っていてもやらなきゃと思ってやってる人もいるだろうし、いろいろだと思う。

うちの家も、近くの天台宗のお寺の住職2人に数百万円のお布施をした。
僕は、その10分の1でも高すぎると言ったけど、何やら各お寺ごとにお布施の相場があるらしく、ここでケチったら世間の恥になるとでも思ったのか、それ相応のお布施をしてしまった。
さらには、「戒名」という僧侶が故人に対して与える名前があるんだけど、お布施の金額で、このもらえる名前のグレードが決まるシステムがあるらしく、ここでも見栄を張る人は、より多くのお布施をするんだと思う。
葬儀屋やお寺の人たちは、その日本人の醜い「見栄」に見事に漬け込んできている。

このうちメインの方のお坊さんは、中学の時に僕と同級生だった人だ。
父親に早くに先立たれて、数年前に家を継いだんだと思う。
彼が普段なにをしているかというと、悪そな友達とアメ車を乗り回していたりする。

彼も社会と繋がっていたいんだと思う。
でも、現代の仏教文化は、社会から隔離されているからこそ存続出来る仕組みになっている。
社会と繋がっていると神聖さが失われているとでも思っているのか、社会から一歩離れて何となく人々尊敬される存在でないといけない。

彼は、人が亡くなったら呼ばれて、お経を読んで「ありがとうございます」と何となく感謝の言葉をかけられて、多額のお布施をもらって、それでいて何となく尊敬されながら生活している。
それだけで適当に修行まがいのことをしながら遊んで暮らせちゃうから、働く必要なんて全くない。

みなさんはこれが幸せな生き方だと思いますか?

彼は人間として最も不幸だと思う。
社会と切り離された場所で生活するということがどんなに不幸なことか・・・

そもそも、社会から切り離された宗教って、ほんとは物凄くおかしなことなんだと思う。
そもそも、宗教とは、人々を幸福にするためのもののはずだ。
それが、社会の片隅に追いやられて、かろうじて存続してしまっている状態って、とっても滑稽なんだと思う。

葬儀中、一番目立つところに書いてあったのは「南無阿弥陀仏」で、めちゃくちゃがっかりした・・・
うちの家系がパッとしないのは、この念仏のせいなんじゃないかって直感してしまったくらい・・・

それも、お経の合間に、

南無阿弥陀仏
南無○○○○
南無××××
南無妙法蓮華経
南無△△△△
南無□□□□
南無◇◇◇◇
 ・
 ・
 ・

と、10パターン以上、帰依している対象があったみたいだけど、これって、何でもありで、要するにポリシーがないんじゃないかと思った。

天台宗って天台大師からの流れを汲んでいるはずで、元はといえば法華経から来たもののはずなんだけど、全くと言っていいほど別物になっているように思えた・・・
ここのお寺の現状は、現代社会で存続する為のあがきのように見えなくもない。

そもそも、人の死は、豪華に葬儀をあげるべきものなのだろうか?
「形式だけ葬儀をあげれば安心」ってなるのが一番悲しいことだと思う。

僕は、じいちゃんがなくなってから、ほぼ毎日、朝晩の勤行で、じいちゃんの追善供養をしている。
実は、僕にでもお経は読めるんだ。
心がこもったね。

豪華な葬儀をあげただけで、線香花火のように忘れ去られるんじゃ悲しすぎる・・・
豪華な葬儀があげられなくても、みんなが毎日、故人に対して、心から追善供養出来るようになれたら素晴らしいと思う。

人任せでお金をかけて形だけの葬儀をあげるより、お金なんてかける必要はなくて、一人一人が主体となって末永く故人の追善供養をすることが大事なんじゃないかと僕は思います。