今月6日に、じいちゃんが急に亡くなった。

3日の新年会の時は、じいちゃんは顔色も良く、誰もがまだまだ元気だってことを疑わなかった。
そんな中での突然の出来事だった。
こんなにも身近な人の死は僕にとって初めてのことだった。

6日17時過ぎにじいちゃんの危篤の知らせを聞き、急いで病院へ向かった。
だけど、僕が着いた時には既にじいちゃんの心臓は停止していた。
冷たい雨の降る日だった。

直接の死因は脳梗塞だったそうだが、肺炎や心筋梗塞も併発していて、救急車で病院に運ばれた時にはもう手の施しようがない状態だったそうだ。

病院に着いてじいちゃんを見たとき、やっぱり涙が出た。
でも、それは悲しみというより、悔しさから来るものだったと思う。

新年会の時、僕は、じいちゃんの顔を見ていない。
みんなが新年会の時は元気で、後10年は生きれるよとかって口々に言っているのに、僕はそのときのじいちゃんに会っていないんだ。

「1カ月前に見舞ったから今日はいいか」って思ってたのかもしれない。
忙しさを理由に、孫のメッセージと写真を集めてじいちゃんに贈る計画も結局果たせなかった。

じいちゃんに対して、自分がどれだけ大切な存在だと想えてたのかって思うと、悔しくて悔しくて涙が止まらなかった。

でも、悔しくはあったけど、不思議とそれほど悲しくは無かった。
「人の死」に対して悲しみを持てないことはおかしなことなのかな?

葬儀中も、随所で、悲しまなきゃいけなさそうな雰囲気だったけど、そんなに悲しくもないのに悲しい振りをするのは変だなと思ったので、自然にしていた。

じいちゃんが死ぬ前に、日蓮大聖人御書にある「生死一大事血脈抄」をさわりだけでも勉強していたということは、すごく意味のあることだと思った。

日蓮仏法では、人間の生死観に対して、「生も歓喜、死も歓喜」と説かれている。
「死」は、次の生への出発だと捉えているんだ。
「三世永遠」と説かれているように、「過去世」、「現在世」、「未来世」という連続した生の中で、生命が未来永劫に続くということ。

これは、人間は「死ぬと無に帰する」とか、「永遠不滅の霊魂が残る」とか、多くの人々の中で漠然としてしまっている生死観を真っ向から否定するものだ。

昔から続く「南無阿弥陀仏」の念仏宗は、とにかく「人生は無常だ」と説いている。
「死んだら極楽浄土に行けるから、それまで苦しんで生きなさい」というどこまでもネガティブな教えなんだと思う。

「何だそりゃ?」って正直思う。
夢も希望もない。

そんな漠然とした「無常観」が、実は、現代社会でも根強く人々の中に息づいているのが僕にも分かる。

僕は、「三世永遠」を信じたい。
だって、すげぇ夢があると思うんだ。

じいちゃんは、あの世で成仏するんじゃなくて、次の生で成仏出来るんだ!
そう思うと、毎日の朝晩の勤行で、これから次の生を生きるじいちゃんに心からエールを送れる!

「成仏」って、自分の一生の中で、厳然と出来るものなんだ!

死んだらそこで終わりだなんて僕は考えたくない。
そう考えてしまったら、「死」を恐れて、結局身を惜しんで身動きが取れなくなっちゃうもん。

僕は、「使命」の為に捨て身で生きられることこそ尊い生き方だと思う。
だからといって、命を無駄にするって訳じゃないよ。
「使命」を果たす為に生き続けなければならないんだから!

僕は、次の生があるって考えられるだけで、この一生を、何があっても諦めずに、一生懸命生きられる気がする。
最後の瞬間まで!
その努力は、そっくりそのまま次の生へ持ち越せるんだから!

もちろん、僕はまだこの概念を学び始めたばかりで、「信じている」というより「信じたい」段階にいる訳だけど、自分なりに超ポジティブに昇華出来てる気がする。

実際のところなんて僕にもまだ分からない。
だけど、一生、ポジティブ思考で生きる為の最高の哲学がここにあると思う。

みなさんも、この機に、自分の生死観を見直してみては如何でしょうか?

個人的には、「生死」に対してどのように考え向き合っていくかで、人生が全く違うものになるんじゃないかと思っています。