よく、「そうなる運命になっている」とか、「そうなる宿命だった」っていうことを耳にしますよね。
何だか神がかっていて、いかにも生身の人間にはコントロール出来ないような言い方ですよね。
運命や宿命に従って生きるしかないというような。

僕は、今までの人生の大半を、親の敷いたレールの上であったり、社会の中で違和感がない範囲で生きてきました。
大学を卒業して、無難に就職して、同じ会社で長い間働きました。
家はそれなりに裕福で、みんなから羨ましがられるような恵まれた環境で、それが当たり前なんだと思っていました。

世界の裏側で何が起こっていようと、僕のすぐ周りの環境に変化がなければ、それほど気に止めませんでした。
まるで、映画「ホテル・ルワンダ」の一シーンで、ルワンダでの大虐殺のニュースを聞きながら、「怖いね」というだけでディナーを続ける世界の裕福な家庭の人々のように。

振り返ってみると、この時の僕は、完全に宿命に翻弄されていたんだなと今は思えるんです。
表向きがいくら恵まれていて自由に見えても、それが原因で大事なことに気付けなかったんです。
それが、僕にとっての宿命だったのかもしれません。
もちろん、今でもこの宿命と戦っています。

人それぞれ、形や度合いは違うと思いますが、宿命は確かに存在すると思います。
では、宿命をどう捉えれば良いのでしょうか?

一つ前の日記「平等・公平について」で、僕は、仏法の「三世永遠」に照らして、生まれる時の境遇や環境は平等で公平である可能性に言及しました。
過去世・現在世・未来世の3つの世が永遠に続く中で、過去に残してしまった宿業(カルマ)は、銀行の預金口座のように、適切に処置しない限り、永遠に残り続けるということです。
残高を残して世を受けた場合、その残高の一部は、生まれる時の境遇や環境として現れます。
そして、生まれた後も、その人の宿命となって現れます。

「宿命は、変えられるか、変えられないか。」
どちらを選択するかで、すべてが変わってくると思うんです。

例えば、貧しい国に生まれ、極端な貧困の中で生活していることを、その人自身も、その他の人々も、変えられない宿命であり、ただの不運としか捉えないとします。
多くの人はその人のことを、可哀そうだからという同情心で、何かしらの方法で支援するかもしれません。
中には、犠牲的精神で身をなげうって尽くす人も出るかもしれません。
でも、その人自身が、自分の不運を嘆き、殻に閉じこもっているとしたら、貧困から救い出すことも出来ないかもしれません。
貧困から抜け出せたとしても、みんなの中でのモヤモヤ感は拭えず、本当の意味での解決にはならないでしょう。

では、こう考えたらどうでしょう?

その人にとっての災難や不運は、予め自分がデザインしたチャレンジであり、宿命を転換し、過去世での宿業を克服する為に、自らが願って用意したチャンスなんだと。
まず、周りの人は、可哀そうだというよりも、そのチャンスが今まさに訪れているということに、むしろ尊敬心から羨ましいとさえ思うかもしれません。
中には、心からの激励の言葉や行動で、その人に働きかけるかもしれません。
何より、その人自身が、チャンスを手にしているという思いから、希望を胸に立ち上がり、果てしない苦悩にさえ向かっていける勇気を持てるかもしれません。

厳しい宿命に直面し、絶望のどん底にいる人がいたとして、その人にかける言葉も変わってくるでしょう。例えば、

「不運だったね。いろいろあるけど、元気だしなよ。僕には何も出来ないかもしれないけど、何か出来そうなことがあればいつでも連絡して。力になるからさ。」

なのか、

「おめでとう!今こそ宿命を転換するチャンスだよ!是非力になりたい!君が宿命を転換出来れば、僕を含めた多くの人の希望になる!」

なのか。

僕は、2005年に創価学会に入会する時、会員の方からいろいろな話を聞きました。
中には、「絶対に幸せになれるよ」と言いながらも、「信心すると宿業が一気に現れて、いいことも悪いこともいろんなことが起き始める」ということも聞きました。
今のところ、不思議なほど、その通りになっています。
嬉しいと感じることも沢山増えたけど、特に様々なとに苦悩し、もがくことが格段に多くなりました。

自分の勝手な視点で、自分に良いことしかもたらさない宗教しか信じないという人は、確実に退転すると思います。
でも、災難といえる出来事が続く中、僕は、仏法から学んだ思想に出来る限り忠実に、実践を続けました。
今でも、そういった災難と言える出来事は、引き続き起こり続けています。
でも、今の僕は、そういった出来事を、不運として捉えずに、チャレンジであり、チャンスであると捉えています。

冬休みに、一日2時間の題目(「南無妙法蓮華経」の祈り)を決意してからも、いろんな災難が起こりました。

せっかくのバンクーバー旅行中、ずっと異例の大雪に見舞われ、身動きがとれませんでした。
メガネを無くしたり、財布を落として誰かにもっていかれかけたり、せっかく手にした自転車を早速盗まれたりもしました。
鍵を部屋に置き忘れて、ちょうどルームメイトが数日出かけていた時で、2日くらい部屋に入れなかったり・・・

自転車を盗まれた時は、そんなに強固ではないですが、もちろん鍵をしていました。
その鍵は、無残にも切られ、盗難現場に置かれていました。

この出来事が起こった直後は、ちょっと痒かったけど、そんなに痛くありませんでした。
もちろん、せっかく譲ってくれた方に申し訳ないと思いましたが、いつまでもくよくよすることはありませんでした。
何より、「盗難者は地獄へ落ちてしまえ」とか「人間はやはり信じられない」と腐ってしまうことは一切ありませんでした。

この出来事は、僕の決意を揺るがすための罠であり、予め自分で用意したチャレンジなんだと捉えました。
もちろん、表面的には更なる用心をする教訓になりましたが、仏法で言う誰もが元々持っている「仏の生命」は、外すことなく今でも信じ続けています。
この「仏の生命」を拓いていくことで、誰もが可能性を無限に拓いていけるという思想です。

真偽は別として、この思想を貧しい国の人々に伝えていったらどうなると思いますか?
創価学会のすごいと思えるところ
は、世界を舞台にこ