日本に一時帰国する直前に、ポートランドのゲイ・プライド・パレードに参加した。
そのパレードにて、LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー)をサポートする為、SGI-USAとしてマーチを行った。

オレゴンのリーダーはゲイです。
彼はそれを隠すことも後ろめたく思うことも無く生きている。
それどころか、人間として模範的な生き方をすることで、多くの人から尊敬を集め、プライドを持って幸せな人生を送っていると思う。

このパレードは、ダウンタウンの半分以上をカーフリーゾーンにして行われる大々的なものだった。
多くの人が歩道で声援を送っていて、まちをあげてLGBTというマイノリティ・グループをサポートする雰囲気がひしひしと伝わってきた。
おまけに、ウィラメット川沿いのウォーターフロントでも、プライド・フェスティバルが大々的に行われていた。

あまりにもオープン過ぎてびっくりした。
でも、本当は、これが自然な姿なんだと思う。
現に、SGIとしても、パレード参加直前に、いつものミーティングと同じように、「南無妙法蓮華経」の題目三唱を行った。
題目を唱えることは、公共のスペースであっても、何も不自然なことでは無いのだ。

こんなに大々的に町をあげて性的少数派の方たちのための祭りを行うことなんて、日本では考えられないかもしれない。
公然と宗教の儀式的なことを行うことも、日本では極めて起こりにくいと思う。
だけど、実は、どちらもごく自然なことなのだと思った。

良く、「ゲイは性的欲求が強くて襲ってくる恐れがあるから、ゲイが集まるところには近寄るな」、みたいなことを忠告される。
それが本当の場合もあるかもしれないけど、僕はそればかりでも無いと思う。
一つ言えることは、「ゲイの人たち」を一くくりにして遠ざけてしまうのは、自分の人生にとって大きな大きなロスになるということ。
現に、そうしてしまっていたら、僕は、素晴らしい影響を与えてくれているオレゴンのリーダーに出会うことが出来なかったかもしれない。

ゲイであるという疑いをかけられることを異常に恐れる人がいるかもしれない。
でも、僕は、ゲイである疑いをかけられてもかまわない。
人がそう思おうと、実質的に、今現在、僕はゲイではない。
疑われるのを恐れて無理に否定することもしない。
疑われるのを恐れて、ゲイの人と接するのを避けることもしない。
むしろ、例え、自分がゲイであっても、構わないと思う。
「人間」として見れば、何ら特別なことは無いから。

「ゲイ」に限らず、多くの人が、マイノリティ(少数派)に陥るのを異常に恐れているように感じる。
大学のクラスで、「マイノリティ」といっても、数の問題ではないということを学んだ。
偏見や差別に晒される立場というのは、人数的に多数派でもあり得るということだ。
要は、人数比ではなくて、パワーのバランスによるということだ。
権力だったり何らかの要素で優位に立っている方がメジャリティで、何らかの理由でパワーの比重が低くなっているグループが一方的にマイノリティという立場になる。

「デブ」「住所なし」「ハゲ」「一重」「包茎(仮性包茎も含む)」「出べそ」「年齢」「人種」「宗教」「物を持っている、持っていない」「ファッション」「精神障害、ハンセン病、豚インフルエンザなんかの病気」・・・

そういったマイノリティのスポットに陥ることを恐れて、あの手この手で意地でもそうならない努力をする。
嘘をついてでも他人を蹴落としてでも、自分だけは、、、という人もいるかもしれない。

日本では、特に女性が「デブ」というマイノリティに属することを異常に恐れているように感じる。
多分、日本では、世界でも有数の、「デブ」の少ない国だと思う。
それは食生活から来るところもあるかもしれない。
だけど、明らかに、社会からの異常なプレッシャーが引き起こしてもいると思う。

アメリカに来て思うのは、日本で「デブ」と言われるような人が、社会に当たり前のようにいるということ。
それが当たり前であり、自然な状態だ。
むしろ、日本社会にいた僕からも違和感を感じるほどに。
それは、ボコボコだったり傷だらけだったりする車が、街中を当たり前のように走っているという事実でも感られたことだ。
日本では、世間体から、みっともなくてとても人に見せられないというような車ばかりだ。
それは良くもあり、悪くもあると思うんだけど、日本社会より明らかにプレッシャーが少ないという点で、すごくいいなと感じた覚えがある。

日本では、「デブ」というレッテルを貼られることを異常に恐れて、危険なスポットにいる人は、健康を脅かしてでもダイエットをする。
そうして、多くの人が、「デブ」というマイノリティから脱出することに成功している。
その結果、身体的な理由も含めて、そのマイノリティグループに残ってしまった人たちが、社会のなかで、異常な偏見に晒されることになる。
実際に、そのグループが少数になればなるほど、人数比の関係で、プレッシャーが倍増する。

この社会の異常なプレッシャーを生み出しているのは、紛れも無く、僕たち一人一人だ。
そして、そのプレッシャーにより、住みにくい日本にしてしまっているのも僕たちだ。

学校のクラスのいじめを苦に、自殺に追い込まれてしまう生徒がいる。
いじめる側は、「まさか自殺するとは思わなかった」と言う。
これは、いじめの構図が、一対一ではなく、クラス対一人となることに由来すると思う。
いじめに加担する人も、見てみぬ振りする人も、一人一人は軽い気持ちかもしれないけど、それをすべて加算していけば、その一人にかかる負担は半端じゃなくなる。

人々が、マイノリティに陥ることを恐れれば恐れるほど、社会はぎすぎすする。
そうすることで、どれだけ、マイノリティのグループにいる人たちにしわ寄せがいくか。

マイノリティにいる人の多くは、プライドを持てない。 

実逃避をして、それを受け入れない人もいる。 
隠し続ける人もいる。 
偏見に支配されて生きるしかない人もいる。 

これは、自分がマイノリティにいなければ済む問題では決して無い。 
何故なら、マイノリティにいる人たちの能力を開発出来なければ、社会が健全に発展していかないから。 

「持続可能な社会」実現には、「環境」「経済」「公正」の3つをバランスさせるのが絶対条件になると言われている。 
だから、「マイノリティ」という枠を作り、偏見と差別の構造を残している限り、持続可能な社会を実現することは出来ない。 
「持続可能でない社会」とういうのは、多かれ少なかれ、「破滅に向かう社会」を意味する。 

アメリカの人種差別の歴史。 
その時代には、人間として生きることさえも許されない、「奴隷」という階級さえ作られた。 
法律などの上ではそういったあからさまな制度は無くなったかもしれない。 
でも、今でも、アメリカ人の中に、深くその偏見と差別の構造は残っているように感じる。 

そう、僕等日本人は、アメリカにこれば、否が応でもマイノリティ・グループに属することになる。 
たまたまかもしれないけど、大学のクラスのグループワークで、僕的にすごく入りにくいグループに当たってしまった。 
僕の感覚でしかないけど、彼らは本当に親切じゃなかった。 
もちろん、僕の努力も足りなかったと思う。 
だけど、言語が通じにくいということ、アメリカ人スタイルのディスカッションのスタイルに馴染めないということで、どこかレギュラーから外されて、実質的にベンチに押しやられている感覚があった。 
僕は、一人分の役割を果たせる存在なのに、彼らはそれを放棄したということだと思う。 
その能力が無いマイノリティ・グループの人間と見なして。 

そのグループの生徒は全員、Community Developmentを学んでいる生徒だ。 
Community Developmentとは、コミュニティに属するメンバーを差別無くエンパワーして、一人一人の可能性を切り開くことにより、コミュニティとしてのパワーを増幅させるというものだ。(僕の解釈によれば) 
それなのに、コミュニティ内に積極的に差別を作ってメンバーを除外するということは、自分たちが学んでいる内容が全く理解できていないということになる。 

でも、僕はそんな中でも、プライドを持とうと常に努力した。 
僕は、メジャリティにいる人より劣っているという意識を持ちたくない。 
むしろ、僕は努力によって、多くのメジャリティの人よりも結果を出せているという自信もある。 

大学の課題でも、日本人であることを強みに変えて、日本に関することを多数書いた。 
自分は与えられる立場なだけでなく、与える立場でもあるという意識を持って。 
江戸の持続可能性に関するプレゼンをしたのも、そういった意図からでもあった。 
その時は多くのアメリカ人のクラスメートから拍手してもらえた。 
何より、教授が僕のプレゼン資料を欲しがり、あげてきたことからも、アメリカにおいて、僕が与えられる立場にいることも証明できたと思う。 

僕は、例えマイノリティという立場にあったとしても、常にプライドを持っていたいと思う。 
そして、自分が選択した生き方や活動、所属しているコミュニティや組織に対しても、何の後ろめたさを持たず、オープンでありたいと思う。 

だからこそ、僕以外の人々にとっても、そうであって欲しいと思う。 
マイノリティという立場にあったとしても、誰もがプライドを持てる社会。 
どんな生き方をしていても、どんな活動をしていても、所属しているコミュニティや組織がどんなものであっても、隠す必要なく、オープンでいられる社会にしたいと思う。 

そうじゃない社会にしているのは、やはり僕たち一人一人だと思う。 
「自分はマイノリティじゃなくて良かった」 
「自分だけがマイノリティから脱出すればいい」 
「他人を陥れてでもどん底から這い上がろう」 
というような考えが、社会におけるプレッシャーを助長する。 
結果的に、そういったプレッシャーが、僕らの社会に居場所を失くしているのは間違いないと思う。 

僕は、自分の正義を示したいというより、明らかにフェアじゃない状況をどうにかしたいだけなんだ。 
僕は、昔から、不公平な状況には、人一倍、違和感を感じることが多い。 
自分が正しいということを示せないのが悔しいんじゃなくて、フェアな立場で物事が進んでいないのが許せないだけ。 
最近は、当たり前のようにそういったことが横行している世の中に、本気で危機感を感じてきた。 

あらゆるところに、あらゆる形で、当たり前のように偏見と差別がある社会に、僕らは生まれた。 
だから、あたかもそれが当たり前のように思い込んでしまっているところが必ずあると思う。 
本当に、100人が言ったことが間違っていることだって当たり前のようにあり得る社会だと思う。 
アメリカにおける黒人の奴隷制度にしても、その時代に生まれたほとんどのアメリカ人が、その制度がフェアで当然の制度だと認識していたんだ。 

それを変えるには、メジャリティにいる人たちだけでなく、マイノリティにいる人も、当たり前だと思うことを当たり前のように出来る社会に変えていく必要がある。 
「偏見や差別を恐れてやらない」ということも、それで細々と生きるしかないとしたら、当然自分にとって損でしかない。 
それに加えて、「出る杭は打つ」という思想で、マイノリティの人の活動や行動をブロックしてしまえば、結局、自分にとって損でしかないと思う。 
そういう風潮を残しておけば、例えば、自分がやりたいと思ったときに、結局、他の誰かに自分の活動が潰されることになるから。 

それが正しいかどうかに限らず、それぞれが当たり前だと思うことを当たり前のように出来、ありのままの自分でいられる社会を築くこと。 
そうあって始めて、自分も自分らしく、社会に調和して、しかもプライドを持って生きていけるのだと思う。 

これは、あくまで僕の考察に過ぎないけど、善悪というより損得で、本当の意味で自分たちに得な生き方というものを、僕はみんなと話し合って見極めて行きたいなと思います。