「全体」というものを把握して話す人と、「部分」だけをじっと見て話す人とは、話がかみ合わない。
「全体」というものを把握して話す人は、全体を意識しながら、少しずつ具体的な部分に落としていく。
だけど、「部分」だけをじっと見て話す人は、想像力が弱く、全体の関連性が分からないので、納得がいかない。

映画「降りてゆく生き方」のコンセプトとなった論文にはこう書かれていました。
——————————————-
それは、「宇宙から見た地球」であった。
人類はこのとき初めて、地球を外側から俯瞰することとなった。
いわば人類は初めて、「神の視点」から、地球というもの、宇宙というもの、そして地球と宇宙のつながりを実感できるようになったのである。問題の本質を考えるには、まずは状況を把握することが大切である。
「地べたにはいつくばった」いつもの視点では、目の前の問題しか見えてこないし、問題の多岐多様さに目を奪われて混乱してしまう。
「部分」をじっと見る、といういつものアプローチではなく、まずは「全体」というものを把握してから、部分について考えるべきではないのか。そうでなければ、現代の日本と世界が抱える問題を根本から解決することなど到底かなわないように思えるのである。

ほんとうの「生き方」を求めて
?私たちはなぜ映画「降りてゆく生き方」を、つくらなければならなかったのか?
http://www.nippon-p.org/concept.html
——————————————-

これは、論理が通用するスケールの違いのためだと思う。
例えば、科学は、部分的な範囲では正確に論理が構成出来るけど、その範疇を超えたらたちまち論理が通用しなくなる。

参考:論理が通用する範囲
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=862578711&owner_id=2247284

で、こういった場合に、

もし、その「部分だけをじっと見て話す人」が気の早い人だったら・・・
想像力が足りないだけに、相手の言わんとしていることを知る前に、揚げ足をとるだけの、部分的でつまらない反論をしてしまうかもしれない。

もし、その人が、正しいかどうかはともかく、自分が正しいと信じて疑わなかったら・・・
自分の正義を振りかざして、議論の進行を妨げてしまうかもしれない。

もし、その人が、自分だけの利益を守るためにエネルギーを傾けているとしたら・・・
公正な議論を壊して、あの手この手で、相手を悪者にする行動に出るかもしれない。

もし、その人に見方する人が多数いたら・・・
その人の横暴さがさらにエスカレートするかもしれない。

そして、もし、形勢が逆転し始め、自分が間違っていたことが明らかになっしまったとしたら・・・
あれだけ横暴な振る舞いをしてしまったし、簡単に自分の非を認められないかもしれない。

もし、その人に強力なプライドがあったとしたら・・・
ずっと引きづりながら、非を認めないまま一生を終えるかもしれない。

これと似たようなことを、議論ではなくて、社会というレベルでしてしまった人がいます。
その人は、アメリカの公民権運動の発端となった、ローザ・パークス逮捕時のバスの運転手です。

この物語を、「公民権運動・史跡めぐり」さんのページが詳しく説明しているので、転載させてもらいました。

———————————–
1955 年12月1日、黒人女性Rosa Parks(ローザ・パークス)はデパートの裁縫師としての仕事からの帰り、バスの黒人席に座っていました。次第に満員になり、座れない白人が出て来ました。彼等白人乗客は運転手に不平を云い、運転手は「黒人は席を空けて後部に移動せよ」と命じます。バスはどんどん混んで来て、運転手は再度黒人の移動を命じます。しかし、こういう差別的待遇に憤慨していたRosa Parksは動きません。運転手は法をふりかざし、「あんたを逮捕させるぞ」と脅します。Rosa Parksは “You may do that.”(おやりなさい)と応じ、運転手が電話で呼んだ警官達に逮捕されます。

(中略)

実はこのバス事件には奇妙な因縁があります。Rosa Parksとこの時の白人運転手は12年前にも出会っているのです。雨のクリスマス・イヴ、Rosa Parksが帰宅のためバスに乗って着席すると、運転手が「黒人は前で運賃を払ってバスを降り、外から後ろへ廻って黒人専用席に座ることになっている。降りて、後ろから乗れ」と強制しました。Rosa Parksは「ひどい雨なのに、また外へ出すことはないでしょう」と抵抗しましたが、運転手の圧力に負けて外へ出ました。運転手は意地悪く両方のドアを閉め、彼女を外に置き去りにして走り去り、Rosa Parksは雨の中を5マイル(8Km)歩いて家に戻ったのです。彼女は、以後この意地悪な運転手のバスには乗らないようにしていたのですが、1955年の運命の日、たまたま彼のバスに乗ってしまったのでした。

この運転手は今年(2002年)亡くなりました。彼はRosa Parksの一件については固く口を閉ざしたままだったそうです。

公民権運動・史跡めぐり
http://www2.netdoor.com/~takano/civil_rights/civil_01.html
———————————–

当時のアメリカは、時代背景的に、黒人は差別されて当たり前の時代でした。 
法律からして、あからさまな差別をしていたんです。 
生まれたときから、そういった偏見や差別が普通に存在するので、もはやそれが当然としか思えないのでしょう。 

これは、「全体」というものを見失って、ただ「部分」をただじっと見ることしか出来ていない状態だと思います。 
そして、自分が正しいと信じて疑わず、自分たちの利益を追求する白人たちが徒党を組み、黒人への横暴な振る舞いがエスカレートしていったのだと思います。 

しかし、ローザ・パークスの事件を発端に公民権運動が起こり、やがて、社会がひっくり返り始めます。 
変なプライドがない白人は、徐々にその社会に適応していったのかもしれません。 
しかし、強力なプライドを持った白人は、この運転手のように、自分の中で整理がつかないまま、けじめをつけずに死んで行くのでしょう。 

例えば、これを、「人生を棒に振る」というのだと思います。 

(おまけとして)しかし、「公民権運動・史跡めぐり」さんのページでも書いてありましたが、こういった究極的な愚かな人間がいたからこそ、公民権運動が起こったと見るべきなのかもしれません。 

当たり障りのない生活を送っていたら、到底、社会をひっくり返すことは出来ないと思います。 
こういった、いつもは仮面を被っている愚かな大人たちの本性を暴いて、爆発させることが必要なのかもしれないな、と思う今日この頃です・・・