突然ですが、「病を乗り越える」って、例えばどういうことだと思いますか?

「病気にならない」ってことだと思う人がいるかもしれないですね。
「病気を完治させる」ことだと思う人もいるかもしれないですね。
もしかしたら、「病気になっても死なない」ことだって言う人もいるかもですね。

実は、僕にも本当のところは分かりません。

ただ、個人的には、「病気になる」としても、「病気を完治させられない」としても、例え結果的に「病で死ぬ」ことになったとしても、「病を乗り越えた」といえるケースがあると思うんです。

それは、下記のトルストイの言葉にキーがあるのではないかと思っています。

人間は病気のときも健康なときも変わりなく、自分の使命を遂行できる

今月は、創価学会の活動で、たまたま、3つの地区の座談会に参加し、その中で、想像を絶する闘病記をいくつも聞きました。

ある婦人の自身の闘病体験に加え娘さんの膠原病との戦いの話、ある幹部の娘さんの壮絶な事故の話、ある青年の現在進行形で起こっている大病の話・・・
すべて、死んでもおかしくない場面が散りばめられた闘病記でした。

まず思ったのが、学会員さんで病気の人って結構多いんだなってこと。
信仰を持っていたって、超人になる訳ではなくて、あくまで生身の人間だから、病気になる人がいるのは当然なんですね。

でも、病の苦悩を克服するってことが、「病にならない事」だとしたら、その時点で、彼らはアウトですね。

果たして、これが「病を乗り越える」ということなのでしょうか?

壮絶な闘病記を語ってくれた人の中には、どん底にはまり込んだままのケースもあったし、手術が終わって間もないケースもあったし、何とか持ち直したけど病を抱えたままのケースもありました。

しかし、その話の中で、病を経験することによって、「大切なことに気づくことが出来た」とか「ずっと強くなれた」とか、「病になったことが掛け替えのないプレゼントだと今は思える」といったコメントが聞かれました。

僕が好んで良く見る「奇跡体験アンビリバボー」でも同様の話を良く見ているので、病気になることがポジティブな面も実際にあるんだと思います。

だとすると、「病にならない事」は必ずしもテーマではないのかもしれませんね。
しかも、病や障害を抱えながらも、健康な時よりも力づよく生きている人は沢山いますよね。

では、病により亡くなるケースは、すべて「病に負けた」というレッテルを張られてしまうのでしょうか?

実は、以前下記の日記に書いた、余命宣告を受けた僕の恩人は、去年、肺ガンにより亡くなりました。
気づいた時には、既にガンは進行し、末期の状態だったそうです。

大切な恩人の為に祈ります
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=263161085&owner_id=2247284

初めてのアメリカ旅行の時に、彼は、僕の為に時間を割いて、ロサンゼルス中をドライブして回ってくれました。
彼は、当時、アメリカSGIの教学部長で、アメリカの本部にも連れて行ってくれました。

皮肉にも、その旅行のちょうど1年後に、彼が肺ガンになり、余命宣告を受けたということを知ることとなりました。

彼は生前、僕を含め、多くの同志達へ、幸せの種を植え付ける手間を惜しみませんでした。
そうしたどこまでも謙虚で誠実な姿は、僕を含め、多くの人々の中で模範に映ったことだと思います。
オーストラリアに留学中だった日本人が、シドニーで行われたピース・カンファレンスに参加し、オセアニア地域のSGIメンバーの熱気の中で、彼のそうした人間性から発せられる心からのスピーチを聞いて、日本に帰って来てすぐに入会した人もいるくらいです。

そして、彼の余命宣告の知らせを聞いて、僕を含めた多くの同志が、励ましの手紙や祈りを送り、実際にお見舞いに訪れて一緒に「南無妙法蓮華経」の題目を唱えていく人も多かったようです。

さらに、彼は、亡くなる数ヶ月前に、長年付き合っていたガールフレンドと結婚しました。
なので、奥さんは今は未亡人です。

彼女は、同情から彼との結婚に踏み切ったと思いますか?
今、彼女は不幸を感じていると思いますか?

実際のところは、僕にも分かりません・・・

ただ、僕の送った手紙には彼女が返事を書いてくれましたが、どんなに短い間でも、彼との時間が何にも代えられない大切なもののようでした。

彼の死後、彼の追悼ウェブ・サイトが立ち上げられました。
http://www.shinyatomi.com/

彼に恩を受けた人たちの中に、彼は今でも生き続けているんだと思います。
僕は、今でも、毎日のように、彼への追善供養を送っています。

こうした同志の温かい気持ちと祈りの中にあり、しかも彼は、生命の根源の法則を説いた「仏法」に精通していて、人間の無限の可能性を引き出す方法を熟知していたはずで、僕は、彼が奇跡を起こして病を完治させるものだと思っていました。

しかし、余命宣告より大幅に生き長らえたとはいえ、彼は息絶える結果となりました。

彼は、果たして、病を乗り越えることが出来なかったのでしょうか?

僕は、彼は結果的に亡くなったけど、「病を乗り越えた」と言えるのではないかと思っています。

彼は、アメリカSGIの機関紙である「World Tribune」に、自身のがん闘病手記を投稿しました。
その壮絶な病魔との闘いの中で、生命の法則を熟知した彼が、耐え難い苦痛の中、「後悔」と「不安」による「迷い」により、何度も諦めて自らの手でその死闘を終わらせようと思ったそうです。

どんなに高尚な思想をいくら頭で理解したとしても、実際にその状況にならなければ分からないということは無数にあると思います。

だから、「病」の先に「悟り」があるとすれば、病気は必ずしもネガティブなことでは無いということです。

実際に、彼は、その闘病記の中で語っています。

日蓮大聖人は『南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり』と仰せです。南無妙法蓮華経によって私たちは『我が心本より覚るを成仏というなり』と、自分が本来、仏であることを覚知できるがゆえに、大歓喜を体験できるのであると言われているのです。
死と向き合うなかでの唱題をとおして、私はこの一節で大聖人が仰せになっている『大歓喜』の意味を
理解し始めています。自分の使命は、南無妙法蓮華経の永遠なる宇宙生命と一体であることを確信できるようになりました。

もしかしたら、彼が病に倒れなかったら、このような「気づき」は彼に訪れることは無かったかもしれません。

さらに、手記は続きます。

『死のがんと闘う今、この場所で私は幸せである!私は病と苦痛のさなかでも歓喜でいられる!』こうした発見は、これまで書物で学んだものの何よりも大切なものです。がんとの闘いは私に生命と幸福の何たるかを教えてくれました。
こんな苦難のなかでも、一つだけ誰でもできることであって、誰もがするとは限らないものがあります。それは「決して希望を捨てない」ということです。信仰実践をとおして、私はこの大事な教えを学びつつあります。
自分の生命の偉大な可能性を信じて南無妙法蓮華経と唱えていくことによって、私は「決してあきらめない勇気」を持つことができたのです。

そして、下記のように締めくくられています。

私のがんとの闘いは毎日、続いていきます。しかし、私の希望と勇気は、「病と死」の苦を乗り越えて、確実に上昇していくのです。

彼は、結果的に亡くなりました。

だけど、僕は、この境涯に達することこそが、例え死ぬ結果になったとしても、「病を乗り越えた」と言えるのではないかと思うんです。

そう、冒頭で紹介したトルストイの言葉のように、人間は、病気になっても、健康な時と同等かそれ以上に、自分の使命を遂行することは可能で、それが出来た時に、「病を乗り越えた」と言えるのではないかということです。

もちろん、病を抱えながらも自分の使命に向かって邁進している人も、「病に打ち勝った」と言えるんだと思います。

大した病気になったことも無い人間が推測で語っているに過ぎないのですが、これまで書いてきたことをまとめて、

1.病気になることは、必ずしも不幸なことではない。
2.病気を完治させられないことが、必ずしも「病に負けた」ということではない。
3.病気で死ぬことになっても、「病を乗り越えた」と言えるケースがありえる。